何をやっても満たされない理由【10年かけて見つけた、心の穴を塞ぐたったひとつの方法とは】
※有料記事として書きましたが、ほとんど無料で読めます。
いきなりですが、今あなたの心は満たされていますか?
なかなか難しい質問だと感じる方もいるかもしれませんし、即答できる方もいるかもですね。
個人的に、”心の満たされ状態”は職業柄、常にチェックするのですが、『あーなんか心の穴が・・・』と感じて気持ちがあまり良くないときも、あります。
この、心に穴を感じる、あるいは心に穴が空いている感覚を虚無感と言ったり、虚しさや無価値感、という風に表現することが多いと思いますが、このような感覚を避けようと生きると人生は窮屈になります。
虚しさから逃げようとすればするほど、背後にいつも感じる大きな影。ずっしりと重たく、プレッシャーのように押し付けてくる。
稼がなければ、結婚しなければ、人気でいなければ、隙間を埋めなければ、成果出さなければ、美しさをキープしなければ!!
心の穴、塞ぐことができるのは、たったひとつだけだということが、10年の潜在意識研究で、わかりました。あえて、豪語します。
たったひとつだけ、だったのです。
少し話はズレますが、あなたは愛着障害、という言葉をご存知ですか?
ものすごく簡単に説明すると、”愛情に関する機能がうまく働かず、不安や回避を繰り返してしまう”という一種の状態を指します。例えば、好きな人からの連絡がないとパニックになってしまい、何も手につかなくなってしまったり。
あるいは、愛されていると感じると恐怖心が生まれ、望んでいるのに回避してしまったり。自分を大切にしてくれないような人をわざわざ選んで、苦しいはずなのに辞められなかったり。
こういった症状を、自分の性格の何がいけないのかな?自分は心が弱いのかな?と思って自分を責めてしまうと逆効果になります。愛着障害は程度の違いはあれど、生きづらさを感じるあらゆる人が抱えるものだと、わたしは考えています。
つまり、大なり小なりみんな持っているし、みんな愛着になんらかの問題を抱えている、と。
愛するのが怖い人もいれば、愛されるのが怖い人もいる。わざわざ自分を大切にされない方に向かってしまうタイプ。幸せや幸福感が続くことを自分からストップかけてしまうタイプ。混在型もいれば、複雑骨折したようなタイプもいる。
あなたは今、”愛情”というものとの間にどのような関係を築くことができているでしょうか。
(ガチ愛着障害についての詳しい話はあえて割愛させていただきます。詳しく知りたい方は、こちらの書籍などを読んでみるといいかと思います!)
↓↓タイトルがアレなんですが(笑)以前クライアントさんだった方が翻訳をされていて、非常に読みやすく良書です。タイトルだけ、謎ですが(笑)愛着について書かれています。
愛着といえば岡田先生!という感じなのではないかしら。鉄板。
ちなみにこちらも良ければ。
愛情のバケツに、穴が空いたまま?
幼少期の体験や、小さい頃の環境によって愛情に関する記憶が形成されていきます。とても厳しく育てられた場合は、自分は愛情を受け取ってもいい存在なのだと思いづらい傾向があります。甘やかされたとしても、自分に対して他者は無関心であるというレッテルを貼ってしまうこともあります。
そして、愛着障害というのは心の中にある”愛情のバケツ”に穴が空いている状態だと想像するとわかりやすいかもしれません。
愛情のバケツに穴が空いているから、いくらそこに愛情を流し込んでも、どんどん穴から抜け落ちていくのです。
たとえ、自己愛と呼ばれるような、自分自身に対する愛情でも同じです。まずは心にある愛情のバケツの穴を塞がなくてはなりません。では、どうしたら穴を塞ぐことができるのでしょうか?
そのお話をする前に、すこしだけ愛情というものについてお話しします。
まず、愛情というものは一般的に、”優しさ”だとか”関心”だとか、”触れ合い”や”丁寧さ”などで形成されていると思われています。
誰もが雑に扱われると、愛情のなさを無意識に感じますし、無視されたり無関心であったりすると、愛情がないんだと認識しやすいですよね。
あなたは、どんな場面において愛情を感じますか?
どのような表現を、愛情がある、あるいは愛情がない、と感じているでしょうか。
そういった、多くの人に共通する愛情に関してが大切なのはもちろんのことですが、愛情のバケツの穴を塞ぐために重要なのは”自分にとっての愛情の形”を知ることなのです。それは、愛情のモノサシと言い換えても良いでしょう。
ある人は、恋人からの連絡の頻度で愛情を測っています。また別の人は、返信のはやさかもしれません。他の人は、恋人がどれくらい自分の話を聞いてくれているのか?を無意識に物差しとしているかもしれませんね。
あなたはどのような”愛情のモノサシ”を持っているでしょうか?
どんなことをされると、どんなことを言われたりどんな”態度”や”雰囲気”で関わりを持たれると、不安になったり、怒りが湧いたり、悲しくなったりしますか?
身近な関係だけではなく、上司や部下、コンビニの店員さん、SNSの友人や、会社の同僚に対しても、無意識に愛情のモノサシを使っています。そして、この愛情のモノサシこそが、バケツに穴をあける正体なのです。
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実は、愛情のモノサシを捨てることが、バケツの穴を塞ぐ方法だったのです。
周りの人や他人から愛情をもらえば穴が塞がるわけではありません。心にぽっかり空いた穴に全意識を集中させたところで、塞がるどころかもっと穴は大きくなります。
セラピーやカウンセリングをやってみたり、自分を好きになる方法を実践してみてもなかなか効果が出ない人がいます。もちろん、効果が出ないことが悪いわけではありません。しかし、愛情のバケツに空いた穴を塞ごうとしているつもりで、実はもっと穴が空いてしまうこともあるということなのです。
例えば、辞めたくても辞められないクセがあったとします。多くの場合はそのクセの原因を探れば解決できると考えます。理論的には正しいのですが、原因を見つけると今度は、その原因を取り除く方法を探します。行き着く先はだいたい、劣等感や孤独感、恐怖心や罪悪感です。
本来の目的は、辞めたくても辞められなかったクセを、辞めることですよね。それなのに、気づいたら自分の劣等感や孤独感と向き合い、消そう消そうとがんばってしまいます。目的を見失って、暗闇の中で見えない敵と戦うようになるのです。そうやって、”自分と向き合うループ”にはまりこんでしまう方が多く、いらっしゃいました。
向き合っても向き合っても、嫌な気持ち・臭いものにしか出会わない。
そうなってしまうと、自分と向き合うことは苦痛でしかなく、苦痛なのにやらなければいけないことになってしまいます。
本来、自分の気持ちと向き合うことはとても前向きなことです。それなのに、つらい修行のようになってしまうのはどうしてだろう?といつも疑問に思っていました。
その結論はシンプルです。
モノサシそのものを握りしめているからです。
愛情のモノサシを捨てられなかった。
自分をなんとか良くしようと変えようと、いい方向に変わっていこうとしている”つもり”が、愛情のモノサシで、バケツの穴を余計に大きくしていたのでした。
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愛情のバケツと、愛情のモノサシの話に戻りましょう。
あなたは、無意識のうちに愛情を測るモノサシで、バケツに穴を開けていたと想像してみてください。愛情のモノサシを捨てると、愛情のバケツに空いた穴は自然と塞がっていきます。それはまるで、手にできた傷口が自然に塞がっていくように。
心にも自然治癒力があるのです。
そう、この心の自然治癒力に任せる、という方法が、心の穴を塞ぐたったひとつの方法です。
あとは、わたしたちがこの自然治癒力を邪魔せず、穴を余計に広げないようにするだけ。そのために愛情のモノサシを捨てることが必要です。
では、愛情のモノサシを捨てる方法をいくつかご紹介します。まず気づいて欲しい点が3つあります。
(1)愛情を無意識に測っていると気づく
(2)誰かの態度と自分の価値をつないでいることに気づく
(3)”できること”ばかり探していることに気づく
「なぜ?」と深掘りしないことが重要です。
もしあなたが、心の専門家になりたいというなら深掘りしていけば良いのですが、そのつもりがない場合は「なぜ、愛情を測ったのだろう」とか「なぜ、人の態度を気にしているのだろう」とあまり深く考えないことがコツです。
あくまでも、愛情のモノサシを使っているな、ということに気づくことが大切なのです。気づいたら、切り替えていくだけ。
愛情のモノサシを使っているな
↓
気づく
↓
別のモノサシを使うようにする
これを繰り返すのです。
この、”別のモノサシ”については、後ほど解説しますね。とにもかくにも”愛情のモノサシを使っている”と気づくことが最初のステップなのです。
そして、誰かの態度や接し方を通して無意識に自分のことを評価していることに、気づいてみましょう。これは、ちょっとしたことから気づけます。誰かの言った内容だけではなく、その”言い方”だったり、”雰囲気”だったり、”言葉の語尾”などに注目するといいです。
実は、愛情のモノサシは言語以上に、”非言語”に対して使われることが多いのです。例えば、言っている内容は理解できるけど言い方にモヤモヤする時や、言われた内容は気にならないけれど、タイミングにイラっとするなど。
非言語だったり、目にははっきりと見えないような部分にこそ、愛情のモノサシを使っているのですね。ですから、他者からの評価そのものや、言われた内容そのものではなく、”雰囲気”や”態度”や”言葉の強弱”といったところに注目することが大事なのです。
”無能”に安心する
さらに、愛情のモノサシを無意識に使っているときは、気づいたら「できること」ばっかり探してしまう傾向があります。何が出来ないのか?ではなく何が出来るのか?何を”もっと”出来るようにならないといけないのか?そうやって人生が『課題』だらけになってしまうのですね。
だから、無意識に出来ることばかり探しているなと気づいたら、フーッと息を吐いて深呼吸し、立ち止まるようにします。「ダメだダメだ、出来ることばかり考えちゃいけなかったんだ!」という感じではなく、ただ静かに立ち止まるだけでいいのです。
そして、おすすめなのが、”無能の可能性”を感じてみるというワークです。無能という響きは決して良いものではないかもしれませんが、つまりは「出来ることがないorできることが少ない」ということですよね。一見するととても残念なお知らせのように思うかもしれませんが、違う方向から見たら可能性でしかありません。
赤ちゃんを想像してみてください。彼らはある意味、無能ですね。しかし、無能だからこそ、なんでもできる。無能だからこそ、自由。
何も出来ないからこそ、あるいは出来ることが少ないからこそ、それだけの自由と可能性があったとしたら?
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少しわたしの話をさせてください。小さい頃から”能力が高い前提”で育てられた感覚があります。いつも両親や祖父母からの期待がプレッシャーでした。出来ることがあれば褒められますが、褒められると更に上昇しなければならないような気がしました。そのうち、何をやっても満足しないような気がしてきました。
例えば、小学校6年生の春休み。宿題で、絵日記をつけるというものがありました。絵を描くことがとても好きだったわたしは、その宿題がとても楽しみだったのです。
しかし、わたしが描いたバラの絵を見て父は「お前は絵が上手いんだから、もっと上手く描ける」と言って、その日から絵の特訓が始まったのです。
毎日のようにバラの絵を描かされては、父がそれに意見する。褒められたのかもしれませんが、父は「次はもっとこうしてみろ」「ここがまだダメだから次はこういう風に描くんだ」と言いました。
父にとってはそれがひとつの愛情表現、あるいは不器用なりの関わり方だったのかもしれません。でも、わたしにとっては苦痛でしかなく、大好きだった絵を描くことも、その時から”描きたいように描けない”というコンプレックスに変わったのです。好きなことが大嫌いになる瞬間でした。
(たまにリハビリ的に絵を描きます)
よく、小さい頃に褒められなかったり、あまり期待されなかったり、お前はバカだ・ダメな人間なんだ、と言われ続けてきたから劣等感がついたと思われがちですが、逆も然りなのです。
褒められ、讃えられ、期待されても、愛情のバケツに大きな穴が空いたのです。
20歳になる頃には、立派な”完璧主義人間”が完成しました。いつも背後に監視されているような感覚があり、他者の評価は気にしないように出来ても、自分の中にいる警察が年中休むことなく隅々までパトロールします。小さなことで落ち込み自分を責めて、プレッシャーをかけることでしか動き出せないようになっていました。
当然のことながら、自分に対してそのようであるため、周りの人や他者に対しても、そのように接してしまいます。周りを見下し、批判し、必死に”わたしの方がより、出来ることが多い”ことを証明するためだけに生きる人間だったのです。
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”もう、価値のある人間でいるために生きるのは嫌だ”
と心底思った瞬間があります。あまり美しくない話ですが、とある場所で泥酔し「泣きながらトイレの便器に向かって大声でゴメンナサイ!ゴメンナサイ!って謝り続けていたよ」と聞いた瞬間に「これはもうダメだ」と本能的に察知しました。
そこからわたしは、無能が与えてくれる可能性や自由さに浸るようになりました。ついつい”出来ること”や”出来ていること”を探して自分を鼓舞しようとするたびに立ち止まり、出来ることが少なくてもいいし、出来ないことがたくさんあってもいい、と自分に対して伝え続けたのです。
出来ることを探す、ということで逆に心が安定する場合もあります。大切なのは、”出来ることが多いか少ないか”ではなく”どんな状態でも可能性や自由がある”と気づく心なのです。
自己肯定感が低いから自分の出来ることを探すクセをつけましょう、といった方法もありますが理論として間違っているわけではありません。しかし、それでは結局、モノサシを捨てていません。「出来ることが多いか少ないか」という視点で自分の価値を測っていることに変わりないからです。
だから、モノサシごと捨てるのです。
自分のことを人生のことを、生きるということを”何がどれくらい出来るのか”という基準で測らない、ということなのです。
出来ることがあっても状況によっては出来なくなる時があるし、出来ないことがあったとしても出来るようになるかもしれないし。”出来ることもできないこと”も変動する、ならばそんなところに自己評価の軸を持つのは不安定でしかありません。
出来ることの数、出来ていることの数(あるいは、出来ないことや出来ていないことの数)で自分のことを評価していたら、気づいて、呼吸して、切り替えていくのです。
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では、ここからは、気づいた後に切り替えていく”別の道具”の話をします。愛情のモノサシではなく、別の道具を持つことで、愛情のバケツに空いた穴を開け続けることが免れます。まずはイメージ的な話をしましょう。
愛情のモノサシは、まっすぐな一本、そのようなイメージです。
別の道具は、シールです。
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