「ネガティブな感情」を通して純粋意識につながり現実創造に活かすレッスン【闇落ちせよ】
ここ数日、立て続けにショックなことが起きており、落ち込み案件が4つも連なってしまいました。
こういう仕事をしていると、ちょっとしたことじゃうろたえることはないのですが、連続の落ち込み案件に加えて息子(1歳)が突然の発熱。
いろいろゆっくり考えようにも、ずっとぐずぐずな赤ちゃんの世話しながら寝不足の頭じゃ、たいしていいアイデアなんかも思い浮かばず。
『これは神様からのプレゼントか・・・』と降参するしかありませんでした。こうまで続いちゃうと、ね。
続いた落ち込み案件によって最終的に得られたメッセージは、わたしにとってすごく分岐点となるお告げのようなものだったので、これはこれで良いタイミングだったのでしょう。
今はもう持ち直しており、切り替えられて次に向かっているところでこの記事を執筆しています。
さて、皆さんはこのようなショックなことがあった時や、ネガティブな気持ちでいっぱいの時・・・不安や恐怖心や、怒りとかモヤモヤとかどうすることもできないような”闇”に落ちていくような時、どのように過ごすでしょうか。
わたしは、ショックなことがあった時や、悲しい出来事があった時、不安や恐怖心が襲ってきた時に、その心情を誰かに話したりすぐに言語化したりすることをしません。
しない、というか”できない”の方が正確かな。
一番身近な存在の、なんでも話せる旦那さんにも詳細は伝えません。
『今落ち込んでいるんだ。でも詳細は聞かないで、時期が来たら話すから』とだけ伝えています。
ネガティブな感情達を通過して、わたしが新しい世界に到達した時に・・・後ろを振り返って『こういうことがあったよ』とシェアすることはありますが、
まさにその渦中という時、わたしはなるべく可能な限りそのネガティブな感情の渦の中にいたいのです。
(育児しながらだとこれができなくって大変だった〜)
この感覚というのは、良い映画を観た後の感覚に似ています。
誰かと一緒に映画を観た後、その映画が良い心の動きをつくってくれた内容であればあるほど、感想をすぐにシェアしあったり、ぺちゃくちゃ映画についての評論をしあったりというのが、どうにも変な気分になるのでできない。
(だから、映画は沈黙していられるような相手としか観に行かない。)
これは人それぞれかなって思うので別に正解があるわけではないのですが、とにかくネガティブな感情であれポジティブな感情であれ、
【心のリアルな動き】というものはそれだけ集中していないと見失ってしまうものなのです。
まさに今、動いている!という時に、やれどう伝えようとか、やれどう表現しようとか、やれ誰になんて言おうとか、そうやって心の動きを外の世界に露呈することに意識を向けると・・・
心というのはそれだけシャイなのでしょうか、スッと動きを止めて隠れてしまうのです。
あなたも経験があるのではないでしょうか。
心が”ガチ”で動いている時に、『ちょっとこれは今、言葉にできないな』という経験が。まさにそんな感じ。
で、今回の記事のタイトルのはこちらなのですが
要はこの記事でシェアすることというのは、あなたがネガティブな感情でいっぱいになった時に、いかにしてその状況から純粋意識につながるのか?というお話とそのためのレッスンについてです。
メンバーシップ向けの記事ですが途中までがっつり読めますし、さらにレッスンをしたいという方はプランに参加してください。
まずは、ネガティブな感情でいっぱいになっている時とはどういう状況なのか、状態なのか、について解説したいと思います。
この話をする前に、個人的に『ふふ・・・これ、いいな』と思う表現が浮かんだのでそちらを分かち合いしたいと思います。
なんのこっちゃと思われるかもしれません。
要するに、
ということです。これについて少し説明します。
”誠実さ”というのは、インテグリティのこと。
他には、真摯、高潔といった意味を持ちます。
誠実さというのは在り方や状態のことなので、考え方とかやり方とか、具体的な行動などではありません。人にはそれぞれの誠実さがあり、その在り方を通して生まれる行動や選択は”誠実な行動”となります。
この誠実であるという状態は、純粋意識につながっている状態の個人が持つ唯一の個性と言えます。つまり、個性の原点であり、すべての人が共通するコアな個性。(みんな根っこは誠実ということだね)
簡単に言い換えるとしたら、人は誠実であるとき純粋意識とつながった状態で個性を発揮できる、ということです。
そもそも純粋意識というのはワンネスの意識とも言い換えることができますので、個人がワンネスの意識と完全に一致してしまっていたら、個人は個人でなくなります。”個”ではなくなるから。
しかし、わたしたちは自意識があります。「わたし」という一人格を持っており、他者と自分を区別しています。
境界線がしっかりあるからこそ自我が働き、そして自分が確立される。ワンネスというのはその境界線が『本当はないんだよ』という真理のことなのですが、この真理が生きるベースだと個性をはっきりと活かすことができなくなります。
純粋意識とつながりつつも個人でもいる(わたし、という自意識がある)という状態を確立することは可能ですが、まさにこの状態のとき、わたしたちは”誠実さ”の状態であるとも言えるのです。
つまり、誠実でいるということはいつも純粋意識とつながりながらも自分の個性を楽しもう、発揮しよう、強めていこうという状態なのです。これ、簡単に言ってますけど感覚としてはトレーニングが必要なんですね。
だって想像してみてください。
誠実でいながらも(他者や外側の世界に対して)
自分の個性も尊重する
この両刀使いということです。
多くの人は、誠実さをとることによって自分の個性や性質を犠牲にします。それでは純粋意識からの現実創造とは言えません。
だから、この両刀をマスターするために、誠実でありながら個性にも忠実でいる、という状態をレッスンするのです。
さて、話をここで「ネガティブな感情でいっぱいの時」に戻します。
わたしたちが、何かしらの出来事を通してネガティブな感情でいっぱいになる時多くの人は、出来事や他人や外側の現実がその感情をつくったと思ってしまいます。
しかし、実はそうではありません。
その溢れんばかりのネガティブ感情は、出来事が起こる前から、ずっとあなたの中にあったものなのです。
そして、何かの現象が一気に風穴を開けてしまった。もうこれ以上入らないよ!みたいな状態だったからこそ、溢れんばかりになって、その中で溺れてしまったということ。
いわばショックな出来事とか、悲しいこととか、誰かの何かによる一撃とか、突然の現実面でのピンチとか、そういった現象は”台風”のような自然現象で。
もう崩れかけていた山や、つくりが脆かった家や、そもそも初めから危険だった場所なんかが、台風という自然現象によって一気にその状態が明らかになってしまうというような・・・
そんなもんなのです、出来事自体は。気にしすぎることじゃない。
だって台風が来て家が崩れたとして、『わたしの何が台風を引き寄せたのだろう』と考えるのって、ちょっとアホらしいと思いませんか?
だからわたしは、自分がネガティブな感情でいっぱいになった時に、それを引き起こした出来事や現象や外側のことにフォーカスを向け続けるということはしません。
間違いがあったならそれを認め、反省点があったならそれを認め、改善点があるなら次に活かす、それだけのことなのであまり引きづらないです。
人間関係に関わることであったとしても、相手のせいにしていても気分が悪くなるだけなので、『そんな奴と付き合っていた自分にはどんな嘘があったか』みたいに、自分自身と向き合います。
だいたい、自己犠牲や曖昧な態度をとっていたりして嫌な思いにつながっているので、じゃあそういうことはもうやめよう!となって終わり。
ネガティブな感情でいっぱいの状態にさせられた現象に対して、いつまでも被害者でいるようなことにならないよう、出来事とか他者とかにフォーカスを向けるのは最も早く終わらせたいことです。
でも。
そういう風に現実面と向き合って、『はい反省、次!』と割り切ったところでネガティブな感情がサラッと消えてくれるわけではありません。
サラッと消えてくれたなら、それはそれでOKなので深追いもしませんが、
いくら考え方を変えても、いくらこれからのことを決めても、いくら割り切ってみても、消えない気持ちがある。それでいいのです。
スピーディーに現象面との向き合いを終わらせた後は、やっと静かに心の動きと向き合うことができます。変に思われるかもしれませんが、わたしはこの”しっとり”した時間がとても好き。
そう、ネガティブな感情に集中して向き合える時間は、本来はとても豊かでみずみずしい、潤った時間なのです。
でも、そうは思えないという人が多いのはなぜ?シンプルです。
みんな、ネガティブな感情に浸ったり向き合ったり、感じ切ってみたりしようとするけれど、
それをやろうとする。要は、向き合っているようで「逃げている」のです。
まるで、親の自尊心を高めるために子どもを優秀に育てようとしているみたいな感じ。いい親をやりたいだけなのに、「子どものため」とか言っちゃう感じ。気持ちに寄り添う風で、排除にかかる。悪者扱いしながら、ナデナデする感じで、なんとなく気味が悪い。
向き合っているのではなく、何かから逃げるための手段にしているのでこれじゃあ、ネガティブな感情からは一生何も得られず、一生追いかけられることになり、一生怯えて生活するだけになります。
と口の悪いわたしはいつも思っています。
ネガティブな感情でいっぱいいっぱいになっている状態に、心の居場所、要は「安心なところ」を見つけることができればいい。
そのためには、ネガティブな感情でいっぱいになっている状態そのものに、慣れていく必要があるのです。「この状態でいい」を自分に与えられるかどうか。
という状態の中、じっと座っているだけとか、じっと佇んでいるだけとか、そういう状態で「いても大丈夫」の体験をするか、しないか。
こういう体験を一度でもしたことがある人は、ネガティブな感情の中に宝があるということを実体験として理解します。そうしたらその先はもう、楽々よ。
どんなに闇落ちしても、どんなに暗い夜がきても、その中でぬくぬくと闇に抱かれながら静かに”降りて”いける。
で、どこに”降りるか”って話なんですけど、それが先ほど出てきた
誠実さ
というところなんですよね。
つまり、闇落ちした先に待っているのは、誠実さというマイホーム(居場所)ということ。そこはもう、ニルヴァーナ(涅槃)やな。
例えばわたしの4つ続いた落ち込み案件ですが・・・最初は色々と嫌なわけです。人のせいにしたりとかも、出てきました。
これからの計画が崩れて不安になりましたし、一生懸命やってきたのになんで?みたいな気持ちにもなったし、『もう全部やめようかな・・・』みたいにもなりました。
でも、それ以上自分が”被害者”や”加害者”でい続けないために、反省できることはさっさとして、現象分析はシンプルに終わらせる。
そこが落ち着いたところで、静かに感情を全開放します。イメージは、「身体全体で受け止める」です。
そうしてネガティブな感情を開放して受け止めていって、焦る気持ちを宥めながら”闇落ち”していく。
落ちて落ちて、ズンッと落ち続けて下まで降り立つと・・・最終的にはこんな感覚しか残らないのです。
よく、スピリチュアル界隈では「何があっても大丈夫」という表現を見聞きするけど、わたしの感覚はもっと
『まっ、何が起きても誠実でいるさ』
に近いですね。
大丈夫なのは、宇宙的なこととか人生的なこととか他力的なこととかが理由ではなくて
取り繕わず、ごめんなさいもありがとうも言えて、自分を変えることも厭わず、素直でいられて、はっきり表現することができて、自分だけではない誰かとも協調することができる。
要は、
ということ。微妙な違いですか、伝わりますか?
宇宙を信じているのではなく、わたしはわたしを信じている。わたしの原点である誠実さを信じているし、その誠実さがどこにあるのか、知覚している。
というのがあるわけです。この安心感は光の中ではなく闇の中でしか見つけることができません。
つまり、ネガティブな感情たちを通ってでしかいけない場所なのです。
さて、ここからは”闇落ち”レッスンです。巷でよく聞く
みたいなことに値するかと思います。
闇落ちレッスンは頭で知ったところでさほど効果はありませんので、やはり実際にやっていただくほかありませんが、最初に注意点だけ述べます。了承する方だけ真面目にレッスンに取り組んでください。
会社を休まざるを得ないかもしれませんし、どこかに引きこもりたくなるかもしれませんし、進めていた案件をストップさせるかもしれませんし、目標がゼロリセットされるかもしれません。今まで目指していた方向に進めなくなるかもしれません。
到達する場所はみんな、”誠実さ”というマイホームですが
以上のようなことが起こる可能性があることを踏まえ、それでもあなたの原点であるインテグリティに降り立つという挑戦をするつもりがある方だけ、レッスンやってみてくださいね。
そのつもりがない方は、ここまで書いたことだけでも十分読み応えがあると思うので何度か繰り返し読んでいれば、必要なメッセージを受け取るのではないでしょうか。
では。
ここから闇落ちレッスンまいります。
まず、
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もし人生が無条件に自由で豊かだったら何をするかと言われたら書く、というくらい書くことが生きる上で欠かせない人間です。10年間の集大成を大放出します。サポートは全て執筆と研究活動に使わせて頂きます