瞑想が私にもたらしてくれたもの
娘が1歳になった。
もう1度0歳の育児をしたい?ってきかれたら、
「…やり直したい」と、1つ間をおいて、希望を添えての返事になる。
育児奮闘
産後すぐに体に痛みがある中で家に帰り、夫と2人での育児が始まった。初めは楽しく余裕があったが、3日目あたりから「あれ?めっちゃ大変。夜寝ない。」
洗礼を受ける。
授乳、ミルク、オムツ替え、抱っこで毎日が終わる。
「それって楽じゃん?」て思う人もいるかもしれないけど、自分の時間はない。例えば、トイレ、お風呂、食事はもちろん、休むこと、寝ることこれを自分のタイミングで出来ない。
はい今から30分寝ていいよって急に言われて、20分しか経ってないけど起こされる。
食事も食べている途中ではい終わり。
そんな感じ。
そして、髪を洗うことも、顔を洗うこともできない日もある。
大袈裟ではなく実際にこれが日常。
そして1日の終わりに、何もできなかったと自分にがっかりする。
初めてづくしの育児は悩みが尽きない
ふわふわな新生児。
お風呂の入れ方、ゲップの出し方、おもつの変え方、着替えさせかた、大切な我が子だからこそ緊張していた。
2ヶ月目、ようやく心に余裕が生まれ、散歩に出かけた。内心ドキドキだったけれどすぐに帰ればいいやと思い抱っこ紐で散歩に出た。
散歩がこんなに気持ちのいいものかと思ったのを覚えている。
風邪を感じる、太陽の光、鳥の声、大自然の中にいるかのように大きな深呼吸をしていた。
そしてすぐに、働いている人の流れを見て、弱気になった。
ボサボサの髪、体調も完璧でない自分、子育てもうまくできていない、そんな自分を否定してしまい、安全地帯の家にすぐに帰った。
睡眠不足、その負担が心に出ていた。忘れやすいし、集中力はないし、少しのことでイライラする、不安になる。育児がこんなにも大変なものかと思い知らされた。
私は長く働いていて、人間関係の大切さ、大きな仕事のプレッシャー、遅くまでの勤務、仕事に対しては頑張ってきたという自負があるが、育児を経験して、【外で働くほうが楽!!】と本気で思う。
そして自分の母親は3人を育て仕事もしていた。
想像だけで気絶しそうになる。
母への尊敬と感謝が増した。
「その人の立場にならないとわからない。」というけれど、ほんとその通りで、世の中のお母さんたちを尊敬する。
瞑想が私にもたらしてくれたもの
瞑想は以前からやったり、やめたりを繰り返していて、妊娠中はなかなか体を動かせないから、ただ座る瞑想が自然に深まった。
慌ただしい毎日から、瞑想の時間だけは静かに落ち着くことができた。
外側がどんなにうるさくても、(やることが多すぎて抱え込んでしまっても)心の内側に静けさや安らぎがあると気づいたら、育児がうまくできなくても、自分のことができなくても、
それに対して抵抗することなく、OKを出せるようになった。(OK出来ないことも勿論あるが)
私は【母親】になったのだ。それは、昔の私ではないということ。今までの当たり前では歯が立たないということ。それなら出来ないことにイライラしている感情は手放したほうがいいと思えた。
私は母親1年生。今から新しい経験を積み重ねていく。
瞑想はそれを受け入れるということに繋がった。
母親である今を最大限に生きる
私は今幸せだ。
それは、今を生きているから。
できなくなったことも沢山あるけれど、これからいろんなことが出来るようになっていく娘といると、今の出来ないことが尊く感じる。
抱っこで腕は痛いし、肩もパンパンだけど。歩けるようになって、大きくなったら抱っこはもう出来なくなる。
そう思うと、
ずっと腕が痛くても、肩がパンパンでもいいから、ずっと抱っこしていたい。
なんて、思ったりするw
辛い育児が幸せの思い出に変わる
育児が終わった母たちに、育児の思い出を聞くとみんな揃って大変だった思い出しか出てこない。
なかなか寝なかった。睡眠時間はなかったよ。何度も病院へ行った。高いところから落ちて怪我をした。ミルクを飲まなかった。離乳食を食べなかった。
大変だった記憶は、大変ではなくなり、掛け替えのない日々に変わっていた。
「大変だったけどねそれが今ではいい思い出なんだ。」
と言う。
そして
「もう一度育児をしたい。」
と言う。
それが本当なら、私は今、人生で最高の瞬間を過ごしていることになる。
未来の私は、今の私に「がんばれ。今しかない今を楽しんでね」って言うだろう。