朝のルーティーンについて、
どんなに眠たい朝も、体がだるくて浮腫みまくっている朝も、
悲しい朝も、嬉しい朝も、寂しい朝も。
必ず1杯のコーヒーから、私の1日は始まる。
こんな風にかくと、おしゃれ雑誌のテーマのようで、ちょっとカッコつけている感じがして、少し恥ずかしいのだが、
コーヒードリッパーに、フィルターをセットして、
いくつかの種類の豆の中から選び、その日一杯を淹れる。
これが、私の朝のルーティーンだ。
・・と言っても、
あまりコーヒーの味の違いはわからないんだけども。
少し、脱線します。
私の祖母の朝のルーティーンは、コーヒーを飲みながら、バタートーストを片手に新聞をじっくり時間をかけて読むことだった。
ゆで卵があれば、なおよし。
床がギシギシする古い台所で、真ん中にあるテーブルに、目一杯新聞を広げている姿は、その新聞の大きさと小さな祖母の体とがアンバランスでなんだかちょっと不思議な感じがした。
私が物心ついてから、祖母が入院することになるまで、その朝のルーティーンは何十年も続いた。
目が見えにくくなり、腰は曲がり、1日の半分以上を寝て過ごすことが多くなった晩年でさえ、朝は重たい体を起こして、コーヒーを淹れていた。少し焦げすぎたトーストを頬張りながら、新聞を丁寧にめくっていく。
「台所、寒いやろ。こたつのとこでテレビ見ようよ。」
私が誘っても、
「これ読んだら行くけん。ちょっと待っとってぇ。」
と、決して自分のペースは崩さない。
「まあ、好きにして。」
こたつに入り、ゴロンっと勢いよく寝っ転がった私を見て、
祖母は、また新聞を1枚めくる。
もしかすると、祖母にとっては、この朝のルーティーンこそが、
生きる糧のような、ある種の希望のような、そんな位置づけだったのかもしれない。
予定があるということは幸せなことで、仕事、学校、飲み会、デート・・なんだって構わない。何か予定があるということは、生きる希望になる気がする。
そういう意味で言えば、祖母の朝のルーティーンは、日々を生きていく上でとても大切なものだったのかもしれない。
歳を重ね、両親、夫、友達がいなくなってしまう中で、
身体が言うことをきかず、制限ばかりが増えていく日々の中で、
朝のあのルーティーンは、自分との約束の時、大切な時間だったのではないか?
今日も、いい朝だと。
明日も、1日頑張ろうと。
自分で自分を奮い立たせるような、そんな”強く””穏やか”な時間だったのかもしれない、そう思う。
私の、この朝のルーティーンが死ぬまで続くかはわからないけれど、
いくつになっても、自分だけの”朝のルーティーン”を持っていたいし、大切にしたい。それは、自分と向き合う大切な時間で、希望のような、そんな時だと思うから。
明日の朝も、1杯のコーヒーから私の1日は始まる。
明後日も、明々後日も、きっとそうなんだ。