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「ダンジョン飯」徹底批評! テーマは「人種問題」と「餓え」の肯定? 究極の「食」は魔物ではなくカニバリズム(人肉嗜食)?

 こんにちは! 今回は九井諒子先生作、「ダンジョン飯」についての感想を話していきたい。完結している原作漫画の内容にもガンガン触れていくのでネタバレ注意である。それでは初めていこう。

 まずこの「ダンジョン飯」であるが、魔物などの空想上の生物を、現実に存在する調理方法で料理して食べながらダンジョンを攻略していくという、グルメとファンタジーを混ぜたような作品である。

 今作はダンジョンや魔物が現実に存在したらというシミュレーションを高解像度で行っている。スライムには実は内臓があるのではないか。ゴーレムの土を使って畑が作れるのではないか。動く鎧は実は軟体生物が寄生して動いているのではないか。そういった魔物が現実に存在したらこんな生態系なんじゃないか、こんな事が可能なんじゃないか。という様々なアイデアが豊富に出てくるし、さらにそのアイデアが論理的で説得力もありレベルが高い。

 こういった魔物を調理するグルメ要素だけでも、面白い作品だと思うのだが、今作のすごい所は、「生」「欲望」「人種問題」等の大きな縦のテーマと「食」というモチーフをちゃんと繋げているのだ。

 例えば、ダンジョン飯という行為そのものが、結果的にダンジョン内の生態系など、ダンジョン世界のルールをどんどん明らかにしていく。魔物の生態や特性を知り調理して食べる事が、ダンジョンのシステムを理解する事になり、ダンジョン攻略に繋がっていく。

 そして僕の解釈では、ライオス達のダンジョンの冒険とは、現代でいう「食育」のようなものだ。ダンジョン内では蘇生が可能なため、命の感覚が麻痺する。そんなか、ライオス達は自分たちで魔物を狩り食べるダンジョン飯をすることで、生きる事は他の生命を奪う事であるという、当たり前の生のルールを思い出していく。

 そして、これは漫画の方のネタバレになるのだが、ドラゴンと融合してしまったファリンを蘇生するために、みんなでファリンのドラゴン部分を調理して食べるという展開がある。ドラゴン化してしまった部位だけとはいえ、ファリンという大切な妹(仲間)を殺して食べることで、ライオス達は生きる事は他者の命を貰うことであることを自覚する。蘇生が可能なダンジョン内で命の感覚がバクッていたライオス達が、ダンジョン飯という食育を通じて、生や命の認識を正しく戻し、死を受け入れる事が出来るようになる。

 これも中々凄いことをしている。昔、小学生の食育のために、豚をクラスで育て、その豚をクラスの子ども達に食べさせるという賛否両論な教育方法があったが、ライオスの場合、育てた豚どころか実の妹を殺して食べることで命の大切さを学んでいるので食育の次元が違う笑。究極の食育はカニバリズムであるという事なのだろうか。 実際、このダンジョン飯という作品は、様々な魔物を食べる事をずっと描いてきて、最終的に食べるのが人間というカニバリズム的な所に着地するのは面白いと思った。

 そして、もう1つ今作のテーマとして入っているのが、「人種問題」だ。作中にはエルフやドワーフのような長命種からハーフフットやトールマンのような短命種まで様々な種族が出てくる。寿命も思想もバラバラの種族達だが、当然であるが食べる事に関しては共通しており、「食」に関してははある種平等なのだ。エルフだろうがトールマンだろうが食べなければ生きていく事は出来ない。だからこそ、ある意味食べるという事は全種族に通用する共通言語のような物だ。今作にはライオス達が別の種族や別の思想を持つ者と食事をするシーンが何度か出てくるが、これは「食」の前では立場や種族の壁を超え平等になれるからこそ、対等なコミニュケーションが可能になるということを表現している。

 あとは原作のラストの方の展開についてだが、 ラスボスである悪魔が、自分の作る完全に欲望が満たされた世界をライオスに否定され、「人間というのは飢えるために生きているのだな」というセリフをはく、実はこのセリフが今作の最も重要なテーマなのだ。食欲を始めとした人間の欲望というのは、いくら満たしても次々に湧いてきて完全に満たされる事はないという厄介なものだ。しかし、今作では、その餓えこそが、足りないという欠乏感こそが実は「生」の原動力であるといっているのだ。人は欲が満たされきらないからこそ生きる事ができる。完全に欲が満たされた状態が続けばそれはもう死んでいるのと同じである。ライオスも言っていたが、生きている以上必ず食事をする。食事を取らなくていいのは死人だけである。食(欲望)も餓え(苦しみ)も生きるために必要な物なのだ。

 悪魔は人間の欲望を食べ続けるために、人間全ての欲望を叶えた理想世界に人々を連れ去ろうとする。しかし悪魔の提示する欲を完全に満たした世界よりも、飢えがある不完全な現実世界をライオスは選んだ。なぜなら、欲が完全に満たされた人生なんて死んでいるのと同じであり、餓えの苦しみこそが、人間の生そのものだからである。(この辺とか何か旧エヴァっぽい)

 そして、ダンジョンの中では、迷宮の主の願望により、ダンジョン内限定で世界(自然)のルールを変える事ができる。(例えば蘇生であったりマルシルの願いのように種族間の寿命差を無くすこと)しかし、それは自分の欲望を他者に押し付け、世界の本来のルールを変えることであり必ず破綻がくる。ダンジョンとはそういった個人の願望を反映した歪な仮想現実でもあるのだ。

 だからこそライオス達はダンジョン飯という行為を通して、弱肉強食のような世界や自然本来のルールに回帰していく。そして最終的に別の世界からきた悪魔すら、現実世界の弱肉強食というルールのなかに引きずりこんで倒す。要は自分の欲望で世界を歪めるのではなく、満たされない欲望や餓えを生み出す現実と向き合う事が大切だということだ。

 それにしても今作は、様々なテーマや展開を盛り込みつつも、「食」というモチーフはずっと貫きとうしたのは凄いと思う。弱肉強食のルール、異種族との食というコミュニケーション、シスルとの戦いでライオス達がドラゴンの調理される側にまわったり、ファリンを倒す時もカレーが鍵になっていたりと、あらゆる展開やテーマが「食」に関連していて見事だった。

 ちなみに僕は、キャラで言うとカブルーが好きだ。魔物嫌いで人間を懐柔するのが得意というライオスとは真逆のキャラであり、明らかにライオスの対比として出てきたキャラだ。正直最初はマルシルではなくカブルーが迷宮の主になってラスボスになるのかと思っていたぐらいだ。僕としてはカブルーが主人公でもいいぐらいだったのだが、仮にカブルーが迷宮を攻略し、迷宮の主になっても悪魔に欲望を取られるだけであり、ライオスのような変わり者だからこそ迷宮を攻略し、悪魔を退けられたのであろう。

 僕の感想はこんな所だ。最後まで読んでくれてありがとうございました! ではまた。

 

 

 

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