「屋根裏のラジャー」感想! 良いテーマなのになぜ感動出来ない?伝えたい主題と物語のズレについて
こんにちは!今回はスタジオポノック最新作、「屋根裏のラジャー」についての感想を話していきたいと思う。最初に簡単な結論を言ってしまうと、映像面は挑戦的でいい部分がたくさんあるのだが、脚本が分かりにくく期待していた程楽しめなかったというのが正直な感想だ。それでは、今作の良かった点、悪かった点について話していこう。
○今作はジェネリックジブリにはなっていない!ラジャー独自の表現の課題!
今作の製作を行ったスタジオポノックは、ジブリの制作部門が解体した後にジブリのスタッフの多くが移籍して作られたスタジオであり、ジブリ的なアニメーションの存続が目的の1つでもある。現に前作の「メアリと魔女の花」は良くも悪くもジブリっぽい作品であるが、ジブリ作品の劣化模倣というような評価も多かった。その点でいえば今作は、少なくともジブリの模倣にはなっていない。キャラクターデザイン、ストーリー、背景美術等は独自の表現になっていたと思う。
特に映像面では手書きの二次元作画を発展させたような立体的な質感であったり、作画したキャラに実際の照明を当てているかのようなライティングの表現など、新しいアニメーション表現がなされていてよかった。
しかし、ストーリーの部分で、少し引っ掛かったり混乱する部分があり、それが感情移入を阻害しているように感じた。特に気になったのが、今作のテーマや伝えたいメッセージとストーリーが少しズレているように感じたのだ。
○アマンダ自身の問題とバウンティとラジャーの戦いは関係ない?テーマとストーリーのズレ!
まず今作の物語がどういう物かざっくり言ってしまうと、父を亡くしたアマンダという少女が、その現実を受け入れきれず、ラジャーというイマジナリーフレンドを生み出して想像の世界に逃避する。そんなアマンダが父の喪失を乗り越え、父のいない現実を受け入れられるようになり、それと同時にラジャーもイマジナリとしての役割を終えるというような話である。
そして、ラジャーのような想像で産み出されたイマジナリ達は、子供が成長したら、豊かな想像力も消えていくので、それにともない消えてしまう。そんなイマジナリの運命とラジャーはどう向き合うかというのが今作の重要なテーマである。
しかし問題なのは、このテーマと今作の物語が、実は関係あるようで繋がっていないように感じたのだ。
例えば、アマンダが事故で意識不明になる事で、アマンダの想像であるラジャーが消えかけるという展開が序盤にある。子供が成長し、想像力を失う事でイマジナリが消えてしまう事と、事故で意識がなくなり想像物であるラジャーが消えてしまう事は、全然別の話だと思うのだ(別にアマンダはラジャーの事を忘れているわけでもないし)
それは、子供のイマジナリを食べてしまう敵として登場する、バンディングとの戦いもそうだ。ラジャーがバンディングに勝つ事と、アマンダが父の喪失を乗り越えて現実と向き合う事は特に関係がなく、バンディングを倒したところで、アマンダ自信の問題が解決するわけではないはずだ。作中のほとんどの時間、病室で意識を失っていたアマンダが、終盤に目を覚まし、ラジャーとともにバウンティを退ける。そして、その後アマンダの内面の問題が解消されたようなラストが描かれるが、正直唐突感が否めない。物語りの過程と結果がちぐはぐに感じてしまうのだ。
他にも細かい部分では、そもそもラジャーは、アマンダのイマジナリなので、ある種アマンダの別人格のようなものであるし、アマンダ自信が見聞きした情報しか知り得ないはずだ。しかし、アマンダが意識を失った後も、ラジャーは独立して活動し、アマンダが知らない情報もガンガン知っていく。この辺は、そもそもイマジナリってなんだっけ?と思ってしまった。他にも、エミリが死ぬ必要があったのか?とか、ラジャーがアマンダの友達のイマジナリになってしまいそうになり、女の子化してしまう展開が物語的になんの意味があるか?など、疑問が沸いてしまったり、混乱する描写が多かったように思う。
特に終盤の病室で目覚めたアマンダとラジャーが、バンディングと想像の世界でイマジナリーバトルのようなことをする。このシーンの映像事態はいいのだが、その後の病室のシーンが、色々と詰め込みすぎて、すごくカオスな事になってしまっている。アマンダはバンディングの想像上の大蛇に巻き付かれておりて苦しんでいたり(そもそもなんで想像の蛇が現実の存在であるアマンダに干渉できているのかも謎だ) お母さんが急にイマジナリが見えるようになったり、お母さんの昔のイマジナリのレイゾウコも参戦し、ラジャーはバウンティに吸い込まれかけて首がめっちゃ延びていたりと、色々な事が同時に起きていて、もはや絵面的にすごく面白い事になってしまっていてるため、内容が頭に入ってこないのだ。もう少し、シンプルにした方が、伝わりやすかったと思う。
○バンディングは成熟出来ない大人であり、子供が直面する「現実」である!
後は、バンディングの正体についてであるがが、作中で語られていたのは、自分のイマジナリと離れたくなくて、他人のイマジナリを食べて想像力を保っているというキャラである。要は、普通の人は、大人になると想像力の低下と共に、イマジナリの存在を忘れていく。しかし、バンディングは、歪な形で想像力を延命し(成長を拒否し)、大人になろうとしない、成熟出来ない大人というような存在だと考えられる。
アマンダのように、現実を受け入れた時(成長できた時)、イマジナリであるラジャーが役割を終えるというのが、イマジナリの正しいあり方なのだろう。イマジナリとは、あくまで現実を生きるための手助けをしてくれる存在だという訳だ。
しかしバンディングの場合は、自分のイマジナリと離れ、現実を生きる事が出来ずに呪いのような存在になってしまったと言うわけである。だから最後に、バンディングが自分のイマジナリである黒髪の少女を食べてしまう事で、自分自身の想像力が消失し、バンディングは初めてずっと目を背けてきた現実を知り、本来の自分の姿に戻ったという所であろう。
そして、バンディングにはもう1つの解釈があると思う。それはイマジナリの対比としての「現実」の比喩だ。子供はすごく万能感があったり、豊かな想像があるが、生きていく上で多くの上手くいかない現実に直面し、現実を知り想像力も狭まっていく。子供達のイマジナリを食べてしまうバンディングは、そういった成長する事で直面する、厳しい現実の比喩にも見える。
しかし、ここにも分かりにくさがあり、バンディングは現実から目をそむけ、想像の中を生きている存在であるように見えるので、どうしても「現実」ではなく「想像」を象徴するキャラクターに見えてしまう。その割にバンディングのセリフで「想像が決して勝てない物がある。それは現実だ」というシーンがあり、想像される側のラジャーは、想像する側の自分、つまり現実の存在には勝てないと主張する。この事から、バンディングはやはり「現実」側なのがわかるが、ちょっとわかりずらすぎである笑 これは初見では混乱する。
○想像と現実の両方に受け止めてくれる存在がいる事で、アマンダは現実世界を生きる事が出来る!
そして、ラジャー達イマジナリは、人間の想像力の生み出す物、つまり創作物の象徴でもある訳だ。アマンダのように辛い現実に直面した時、人は創作物という想像の世界に救われたり元気をもらったりする。しかし、やはりパワーバランス的に、強いのは想像より現実の方である。 だからこそ、ラジャーとの関係はアマンダを辛い現実から守ってもくれていたが、根本の問題を解決してくれる訳ではない。想像だけでは現実には勝てないのだ。
だからこそアマンダが最後、現実と向き合えたのは、想像の世界でアマンダを支えてくれたラジャーと現実の世界でアマンダを支えてくれる母親という、想像と現実、2つの力があったからだ。アマンダは、想像の力(ラジャー)が現実から自分を守ってくれた事、母が現実を一緒に生きる支えになってくれる事で、初めて父を失った現実を生きる事が出来るのだ。想像の力だけでは脆弱な物だが、想像と現実、両方に支えてくれる存在を持つ時、人はどんな現実とも戦えるというメッセージは素晴らしいと思うのだが、最初にもいったように、アマンダ自身の問題とバンディングとの戦いがあまり関係がないため、すごく伝わりにくい作品になってしまったように思える。
とまあ、僕の感想はこんな所であるが、個人的にはお母さんのイマジナリであるレイゾウコが助けにくるシーンはすごく感動した。こういう良いシーンはちゃんとあるだけに、惜しい作品だと思う。良い所はたくさんあるのだから、スタジオポノックには、これからも色々な作品を作り続けて、新しい表現に挑戦してほしいなと思っている。
今回は以上になります。最後まで読んでいただきありがとうございました。
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