◆本質主義的な定義や探究より、プラグマティックな定義や探究の方が個人的には好ましく感じる。文脈なくして個々の項の意味はないという「諸項の接続秩序」という考えに親和的だから。他方でプラグマティックなやり方には終着点がなく、これに関連し本質主義的な定義や探究も排除されずに併存する。
◆インタラクティブで回帰的再帰的な諸項の接続秩序は、非一様に無限に網の目を成すが、各項の結びつき方には濃淡があり、この濃度・密度が高い部分が「萃点」(南方熊楠)であり、いわゆるキーポイントである。このポイントだけではなくこの部分を含む少なくとも一定範囲を掬って範型をくくり出す。
◆諸項の接続秩序は、比喩だが、微小でそれぞれ異なるカッティングをされたダイアモンドが見極め難いほど無数に、しかし結びつき方は一様ではなく網の目を成して無限に連なり広がっている。光を受けるA項は自分なりにこれをB項に照り返し(逆も)、これが波紋のように全体に非一様に広がっていく。
◆見えない、意識していない、あるいは意識し得ない無数の諸項の存在、見えたり意識し得ても、つかみ難いインタラクティブ、回帰的・再帰的動態をもつ諸項の接続秩序。かかる所与においては、範型による類比アプローチと真理からの演繹アプローチが考えられるが、前者に多くの可能性を感じる。
◆意識及び意識外の諸項、インタラクティブ(相互作用的)でリカーシヴ(再帰的)な諸項の接続秩序、として対象を見るという関係論的視座は、項を即自的に捉えず常に他との組み合わせ、作用系列の複層を見るということになり、これはプラグマティズム(俗用のそれではない)に親和するように思われる。
◆新生的な諸項との切り結びの前に、諸項の接続秩序への意識、そのシステム動態への意識がある。重要なのは、①意識外の諸項が無数に接続していること、②意識できない諸項のインタラクティブ性、回帰的・再帰的な動態への開かれた態度である。これには絶望と希望の両面性があるので、短絡しないこと。
◆諸項の接続秩序 広義の諸項(*仮の再整理) ①諸辞 シニフィアン、言葉 ②諸観念 シニフィエ、観念 ③狭義の諸項 レファラン、現実 ・「項」は英語だとやはり「term」か。 ・「接続秩序」は分節関係、連接関係、布置状態、コンステレーション等と言ってもよい。
◆諸項の接続秩序 「諸項」は関係項、「接続秩序」は関係である。論理上、関係項は先行せず、即自的でなく自存しない。関係性のなかでの項である。 占有原理も、占有状態が先行するのではなく、visとの関係で占有が認識され、だからvisも認定でき、違法判断を可能とする、という構造である。
◆諸項の接続秩序には本来的に線条性はなく、言葉のシニフィアンに着目して語・句・文を綴るときにはじめて線条性が現れる。線条性が現れることにより、背景に沈んでいた諸項の接続秩序部分が意識されるようになるので、はじめて範列(パラデイグマ)と統辞(シンタグマ)が理論的に位置付けられる。
◆「二重分節」という比喩的ふくらみをも持つ概念がとても重要であるし有用だと思う。分節が諸項の接続秩序を生むところ、分節自体に自由が内在されているが、二重分節はそこにさらなる自由を加えることにつながる(もちろん、どの段階にも教条化という暗転の契機をもつ。これは避けられない)。
◆諸項の接続秩序(多層多重で複雑な接続関係がある)をきちっと押さえた上で「仮設項」を想像していくことが、アブダクションや背理法(相手の論理を進めて矛盾や不合理な結論に落とす)には欠かせない。これらは訓練することができるように思うし、実生活にもとても役立つと思う。
◆「諸項の接続秩序」は転々流動して止まない無限の様相を有する現実を、ある視点から構成的に解釈して秩序化したものであることに留意。ある項を中心に「後続項」という言い方ができるのであれば、「前続項」という言い方も許されるだろう。既知の項の前続項を発見する逆行推論がアブダクション。
◆個人と集団のあるべき関係というアポリア。「個の創出」は個が集団と切り結び続けている動態を指す。その内実は、個人を取り巻く諸項の接続秩序を見通し見抜き、あるいは項の内包に迫りながら、諸項の接続秩序をつなぎ直し、項を組み換えていくことにある。単なる断絶や敵対、一体化や同化ではなく。
◆諸項の布置状態を見てその接続秩序を変えようとする際に、選択の垂直軸たる《連合、範列、パラディグマ》と結合の水平軸たる《連辞、統語、シンタグマ》があることをまず捉える。前者の組換えはまだ想像しやすいが、後者の組換えは一段の飛躍を要する。逆因果やフィードバック動態などが典型。