わたしたちはほんとうはぜんぶしっているしわかっているしわすれているだけなのにそのしってることやわかっていることやわすれていることのためにたぶんおそらくいまもまたなにかないかとさがしてしまうのはじぶんがなにものなのかをわすれてほかのなにかだとかんちがいをしているだけなのかもしれない