明応8年(1499)1月30日は畠山尚順が畠山義豊を河内十七箇所で破り自害させた日。尚順の父政長と義豊の父義就の家督争いは応仁の乱の原因の一つとも。義就の死後に将軍義材による義豊討伐の際に起きた明応の政変で政長が自害に追い込まれ尚順は紀州へ逃亡。反撃の末に義豊を死に追いやった。
明応8年(1499)1月30日は畠山尚順(ひさのぶ)が畠山義豊を河内十七箇所で破り自害させた日。尚順の父政長と義豊の父義就の家督争いは応仁の乱の原因の一つとも。将軍家、細川家、畠山家の幕府中枢が畿内中心に争い続けたら、その外側で何が起きるか。当事者はそんな事気にしていられないか。