天文5年(1536)6月10日は今川義元が玄広恵探との家督争いである花倉の乱を制した日。当主の氏輝と弟の彦五郎が同日急死する異様な事態により二人の弟である栴岳承芳(義元)派と玄広恵探派に分かれて争った。母寿桂尼と教育係で俗に軍師といわれる太原雪斎の補佐により義元が当主の座に就く。