桶狭間の戦いの考察6
今川義元が桶狭間の戦いで何故負けたのかを考察する記事、第6回目。
今回は守山崩れから、氏輝の死を。
■松平清康暗殺事件「守山崩れ」
尾張守山城を取り囲んでいた松平清康率いる三河勢に凶報が走ります。
松平清康、死亡。
配下の阿部正豊に一撃の元、切り殺されるという衝撃的な事件でした。
清康は三河全土に勢力を伸ばしましたが、わずか10年足らずで急速に版図を拡大した結果、領内の経営には歪みが生じていました。
また配下の兵には優しかった反面、親族や重臣たちとの折り合いが悪く、特に叔父の松平信定、配下では阿部定吉・正豊親子との不仲は広く知られていました。
これは父を強制的に隠居させた経緯や、信定が救援放棄で味方を討死させる等、不穏な動きを続けたからなんですが。(信定はこの際に居並ぶ諸将の前で清康から面罵されている)
そして、その阿部正豊に斬殺されます。(正豊はその場で別の配下によって成敗)
この時、清康わずか25歳。
これが「守山崩れ」と呼ばれる事件です。
あと10年、いや5年長く生きていれば東海道の形勢は大きく変わっていた、と言われています。清康はそれ程の武将でした。
対陣中に大将の清康を失った松平勢は急ぎ岡崎に撤退しますが、この時、松平信定が清康の嫡男竹千代を追放して、岡崎城を乗っとります。
この信定は長親の三男で、嫡男の信忠(清康の父)が無器量人と言われていたため、信定に家督を譲るべきといわれました。
長親も信定を気に入ってはいましたが、継承争いは国が滅びる元です。そこで長親は早々に隠居して信忠に家督を譲って後見人となり、信定は別家の桜井松平氏の養子に出ます。
しかし信忠の無器量ぶりは、長親の想像を超えていました。
当の信定はというと、宗家家督を虎視眈々と狙い続け、甥の清康が殺されると好機到来とばかりに松平宗家を乗っ取りにかかります。
ちなみに、この信定の妻は織田信秀の妹。
そして、信秀は清康を失い浮き足だった三河勢から奪われた城を取り返して、更に西三河に乱入しています。
つまり、そういうことです。
信秀の妹が嫁いだのは守山崩れの後だと思いますが。(清康亡き後の松平氏との関係を深めるならありそうな一手)
北と東に敵を抱えながら、相手の綻びを見つけて致命の一撃を与える。さすが「器用の仁」というべきでしょうか。
長親も信忠に家督を譲った際は宗瑞を破った名将の分別がありました。しかし、この時、暴挙に走った信定を諌めることはありませんでした。
嫡男の無器量の見立てが間違ったこと、養子に出した信定への負い目、期待の孫の惨たらしい死。長親も厭世気分だったのかもしれません。
そして、この翌年に今川氏も凶事に見舞われます。
守山崩れの翌年、1536年に今川氏輝は亡くなります。
生来病気がちだった氏輝の死は、ある程度は予測されていたのかもしれません。
しかし、その氏輝死去と同日に予想だにできなかった事件が起こります。
氏親次男の今川彦五郎も死亡するのです。
氏輝には子供はいませんので、この場合は兄弟が後継ぎとなります。
つまり彦五郎は氏輝に何かがあった際の次期当主候補筆頭だったわけです。
当主と後継ぎが同日に死亡。
しかも戦地ではなく、領内での平時の出来事です。
資料には、氏輝と彦五郎が同じ日に亡くなったとしか記述されているのみ。死因は2人とも不明。
何があったかは神のみぞ知る、といったところでしょうか。
しかし、今川家にはまだ男子が2人いました。
側室の子で三男の玄広恵探。
氏輝、彦五郎と同じ正室寿桂尼の子で四男の栴岳承芳。
この2人が今川の家督を争い、花倉の乱が勃発します。