ものしりじいさま鶴見俊輔氏は、1905(明治38)年が転換点だったという。 首肯できるところも多々あり、あらためて日露戦争前後の本を積ん読山から発掘中。
日露戦争中の1905(明治38)年6月、日本海軍はロシアのバルチック艦隊を破った。だが戦争継続の余力を失った日本は、同様に疲弊したロシアに対する停戦の斡旋を米国のルーズベルト大統領に申し入れる。 同年9月5日、米国ニューハンプシャー州ポーツマス近郊にて両国の講和条約が締結。