明応4年(1495)9月18日は応仁の乱で西軍主力だった大内政弘が死去した日。直前の8月に「喧嘩御定法事」を含む「大内家壁書」が制定。喧嘩は自力救済が常識で集団紛争から社会的混乱を招いた。大名権力による成敗が定められやがて喧嘩両成敗に。ルールが決まり当たり前が変わるのでしょうか。