天正12年(1584)4月6日は小牧で家康・織田信雄と対峙していた秀吉が三河に向けて別動隊を出した日。羽柴秀次を総大将に池田恒興、森長可、堀秀政を擁した三河奇襲作戦。これを察知した徳川軍が翌日夜ひそかに小牧山を出て長久手合戦が始まる。先に動くことが吉と出るか凶と出るか難しいです。
天正18年(1590)5月27日は秀吉の小田原攻めの陣中にて名人久太郎こと堀秀政が病没した日。信長の側近として頭角を現し秀吉にも重用された。小牧での対陣から徳川の三河を目指し別動隊として参加した長久手の戦いでは池田恒興、森長可が討死する中で秀政は反撃し別働隊の崩壊を防いだという。
天正9年(1581)5月10日は信長の検地を拒否した和泉国の槇尾寺(施福寺)が焼き払われた日。僧たちは武装して抵抗を試みたが守りきれないと退去した。伽藍は織田信澄、蜂屋頼隆、堀秀政、松井有閑、丹羽長秀が検分し建築資材として解体した。その他は堀秀政が検分して少しも残らず焼き払った。