慶長16年(1611)1月21日は島津家の最大版図を築いた島津義久が79歳で死去した日。義弘・歳久・家久という有能な弟たちを取りまとめる島津四兄弟の長男で父貴久から家督を継ぐと大友宗麟や龍造寺隆信らと争った九州三国志を制すも秀吉に降る。西軍に属した関ヶ原合戦の危機も乗り越えた。
天文15年(1546)3月10日は肥前の龍造寺家兼が死去し曾孫の隆信(胤信)が家督をついだ日。前年に祖父と父が主君への謀反の疑いで誅殺され仏門にいた隆信が還俗。肥前の熊の異名を持ち大友、島津と並ぶ九州三強の一角を担う。僧で曾孫って…何が世に出るきっかけになるかわからないものです。
元亀元年(1570)8月19日は龍造寺隆信の家臣鍋島直茂が大友宗麟の弟親貞軍に夜襲をかけた日。この今山の戦いで敗れた大友氏は肥前進出を断念し九州は大友、島津、龍造寺の三強へ。20日に佐嘉城総攻撃予定で勝利の前祝いの油断を突かれた。一つの油断が状況を一変させる典型な感じがしますね。