ドゥルーズガタリの哲学とは何かを精読する

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カンギレムは生命を、情報との関係において「誤謬可能性」としてニーチェ的に規定しているが、まさに生命は外なる真理と部分的認識のあいだ、その本源的ギャップにおいて、外たる真理と向き合いながら、それを畳み込み(襞)、それを部分的に借り受けることではじめて成立するのである。

(たぶんドゥルーズ)「「聖なる源泉」としてのペルセプトに手が届いたからには、そして生きられているもののなかに〈生〉Vieを、あるいは体験のなかに〈生きているもの〉Vivantをみたからには、小説家は、あるいは画家は、目を真っ赤にして、息を切らせて戻ってくる」w

このようなヘーゲル的な「概念の哲学」は、「概念」がもつ三つの時代のうちの第一期を指している。ドゥルーズとガタリによれば、それは現代にいたるまで三つの時代をへてきた。すなわち、「概念」の「普遍的百科全書の時代」、「概念」の「教育法の時代」、「概念」の「商業的職業訓練の時代」である。