見ているようで見れてない 慣れると変わらないと思い込む ヒトは日々変わってく 思いもよらない方へ 変わらぬ距離感と 阿吽で ズレが生じる いつまでも調整し続けて 考察して 忙しくも 意味のあること 決して無くしてはいけない 好奇心とひらめき と いたずら心 いや。知らん
なんでを突き詰めた先に、で、結局何が言いたいのってなって、はたからみたら何もないように感じてしまう時がある。でもこれは何もなかったわけではなくて探すべき本質を見失っていた、もしくはそもそもなかったという事だったりといろいろや。結局でた結論はただやりたいからそれだけ。みたいな感じ。
最強の社会人を夢見る今日この頃。献血の話もあってさ、一番の最強は長く元気で健康でいられることなんじゃないかと思う。まずは早起きしよう、健康になると見た目も磨かれて、メタも強くなって、まあ適当言ってるわけじゃない。つまり、最強は健康から始まるんって本気で思っているわけよ。
自己肯定感が下がった人におすすめなのは圧倒的に散歩と献血。特に献血。思ったよりもドロッとした赤黒いもんが機械にかけられてんの見ると、これも自分の一部だったもんか、自分の一部を俯瞰してみると対して人間変わらん。なんて気持ちになるわけよ。でもここで終わらんのが献血。生かされるんよ。
自分で自分の地雷を踏みぬくことってあるけど、他人に踏み抜かれるよかましだよね。そう思えば、大したことないと思える。まあ地雷に変わりないし、他人よりもさらにゼロ距離だから回復というか順応するってイメージで頑張るしかないんよね。爆発を吸収したらそれは後に最強高度の盾にでもなるんか。
背景と理由をあげることって意外と簡単で、そこにたいしての大義名分みたいなものも言語化しやすい。ただ意外とわすれちまってんのが目的ってやつ。この背景と理由と目的ってのを同種にしてしまうと方向性も定まらず、気づいたら燃え尽き症候群とか言われかねない。ここテストにでますからね。
まあそんなに考えてもいないけど、献血は身近にできる社会貢献だし。うちの父親が趣味レベルで行ってて、その理由がうちの姉が輸血を受けたから。そんときの分はもう返していると思うけど、自分が生きてて健康なうちはしたいんだって。人間が人間に対してフラットにできることって意外と少ない。
蛇にピアスって本、中学生の時に読んだらちょっとグロエロって感じにしか思わんくて、でもなんか気になった。なぜかずっとここにいる。書評を書かんきゃいけんときにさ、読んでみたんよ。そしたらさ、全然違う深みがあったっていうか。ピアスを開けるって行為は自分自身を肯定しているって感じすんのよ
人間の味覚ってどうして変わるんだろう。この時期になるとコンビニのおでんがものすごく美味しそう。で、買っちまう。そして不思議だったのは、大根。小さい頃はウインナーと卵、そして糸コンが上位を争っていた。バイト先、満場一致。「大根、ドラ1」
自分で自分のことを全力でビンタしてみると少し世界というか見方みたいなもんが変わるような気がした。全力で自分のことビンタすることってできんのかな。そもそも全力をどう図るのか問題はあるけど、できんのかな。なんかあほすぎて少し悩み飛びそうな予感だけはしているけど。グーじゃなくてパーが〇
嫌いなものを抽出して生きていくとどうなるのか。イメージは私はトマトとオクラが苦手というか嫌いに近いんだけど、その場合、嫌いを抽出してプチっとはじける者が苦手・嫌いと考える。そうすると必然的に魚卵も避ける。苦手なんよ。嫌いを避ける生き方ってどうなんかな、好きが中心は要素多すぎる。
ふと思うが、何者かになろうとするのなんて至極傲慢なことだと。もう今生きていてここにいる。そんでもって腹が減ったらなんか食べて、電気代と言いつつ、エアコンをつける。何者かって考えられるのって、このあたり前水準が高い人の贅沢品なんじゃねーんか。ありがとう皆さん。これや。