魔法はない。だがひらめきと地道な努力なら…。医者になるだけの論理力もない。人を集めるだけの共感力もない。ただあるのは孤独を好む気質と、疑い深さと、創造力…。
心と向き合うことにお金はかからない。単純なお金にかまけるのは信頼に欠ける。こどもにスマホを与えても、親子の信頼関係が成り立つとは限らない。お金がかからないところに愛情も友情もあるんだと思う。
半永続的に苦しいのはしょうがないと思う。だって周囲の無理解によるのかもしれないから。むしろそれを前提とした上で、苦しみも甘んじて受容して、本当に気の合う理解者に恵まれて巡り会うこと。天才っていうのは、時代とか周囲の理解・無理解に関係なく、残すべきものを残したときの人なんだろうな。
私はこの社会と環境に馴染めなくてよかったと思っている。学校社会、家庭教育、科学技術は、正しさを教えるためではなく、ましてや間違いを正すためでもなく、ただ、過ちを許すためにあるものだと思う。そして、そういう人のもとにつきたい。
この病の治し方にはいくつのプロセスがあるか。①まず絶え間ない苦痛を感じる②音楽や脳神経に打ち込む(すでに快楽を追う依存状態アドレナリン※だろうか)③とりあえず死なずに済む 病を治せた試しはないが、この病によって死に至ることを防ぐことはできる。※エンドルフィンかも。鎮痛作用がある。
ゾンビ型症候群:色々考える。病を治す(軽減させる)には色々な試みがある。論理型でいうなら再現度、創造型でいうなら発想度、共感型でいうなら信頼度などだ。その上で、この家庭環境は、病床の発症要因にこそなれど、適切な形でのアプローチには至らない。よって、研究対象としての観察が設けられる