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俳句の世界

 俳句は「感覚」の描写であると思う。五・七・五の十七音の中に、作者の感覚が投影されている。

 俳句において、対象となっている風景は、絵画のように克明に提示されるものではない。詠まれたその瞬間に、その一句に使われている言葉が我々のイメージを呼び起こし、その一句の「世界」を我々の中に構築する。その一句を引き金として我々は、作品世界の情景として五・七・五で詠まれている言葉を理解するに至る。そして我々は自分で作り出した作品世界で、その情景を「鑑賞」する。

 『柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺』 正岡子規

 例えば、正岡子規のこの一句から、我々はその情景をイメージするわけだが、このイメージの世界と、子規の感じた現実世界との隔たりは、どこまでいっても解消されることはない。

 自分の場合、この一句を聞いたときにイメージした作品世界というものは、秋の夕暮れの法隆寺と遠くから響く鐘の音の情景で、柿はその情景を見ている「作品世界の正岡子規」が握っている、というものだった。

 しかし実際のところ調べてみると、子規が法隆寺に立ち寄った際、帰り道に茶屋で休憩しながら柿を食べると、途端に法隆寺の鐘が鳴り、その鐘の音に秋を感じた、というのが句意とされている。

 つまり、自分の中で構築された「作品世界」と実際の作者が経験した「出来事」とは、まったくの別物であるということだ。しかしながら、音や見ているものから「秋」を感じ取っていることは共通していると言えるだろう。この一句のアウトラインは「秋」であることが表現されれば成立するように思える。

 その一句が持つ「独自性」をどこまで作品世界で連想されることができるかという点が、イメージの作品世界の構築を含めた読解として求められるように思う。そう考えるならば、俳句で作者が訴えていることは「共感」ではなく「発見」なのではないのだろうか。

 『古池や 蛙飛びこむ 水の音』 松尾芭蕉

 『むざんやな 甲の下の きりぎりす』 松尾芭蕉

 『春の海 終日のたり のたりかな』 与謝蕪村

 『さみだれや 大河を前に 家二軒』 与謝蕪村

 『やせ蛙 負けるな一茶 これにあり』 小林一茶

 『寒菊や 年々同じ 庭の隅』 高浜虚子

 作者と読み手との間に共有を促すものではないということは先ほど述べたが、共有でないとするのであれば、この句たちで「描かれているもの」の本質は、作者自身の新たな感覚の発見であり、またそのことに対しての主張と捉えることができる。

 普段は見過ごしていた風景の発見、ふとした瞬間に現れた自分自身の内面の発見、それらを決まった形式の中で、独創性を持って表現する。そしてその独創性を生み出すものが作者が持ち合わせた「感覚」なのだ。

 作者の「感覚」の発見から端を発した言葉を、五・七・五の形式にのせて、読者の作品世界の構築を促し、その作品世界に投影されている句意を読解させる。

 関連する言葉の組み合わせとイメージから、ある事柄を作中で成立させる。まさに「描写」と呼ぶに相応しい。

 

 


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