死の境界が近づいてくる
私は双極性障害らしい。判明したのはつい半年ほど前のことだ。
それが原因なのかはわからないが、昔からずっと希死念慮が近くにいる。
死への欲求が影を潜めて平和につつがなく終える1日もあれば、
死が肉薄して、まるで畳の縁を踏むかのような気軽さで死のうとしてしまう日もある。いずれにせよコントロール不可能だ。
そして今日はちょっと1日を終えるのが厳しい日だ。なんとか日常を過ごそうと努力していたが、あまりにも希死念慮が強いので、こうやって文章を書くことにした。
別に希死念慮が悪いわけじゃない、希死念慮だって私が生きている証なのだ。特に今回のケースでは自分の中で理由がはっきりしているから理不尽感がないぶん楽かもしれない。
ただし、どの道それに抗って生き続けることはなかなか骨の折れることなのだ。極楽を求めて死ぬのではなく、地獄から逃れるために人は死に誘惑されるのだと思う。
だから、周りで死にたがってる人を責めるのはやめて欲しい。あなたには全く関係ないだろうけど、その人は内心とても苦しんでいるはずだから。
偶然にも、昨日葬儀に参列した。当然、死について考えさせられる。その方は親戚の方で特に付き合いが多かったわけではないがそれなりに関わっていたくらいの関係性だったので、人が亡くなる悲しさを感じつつもどこか冷静だった。だから、このお坊さんお経読むの上手だなとか考えるほどには余裕があった。
棺で眠る故人や遺影、葬式の様子をぼんやりと眺めて、もしこれが自分だったら?と考えた。病気ならまだ諦めもつくだろうが、もし近々死ぬなら事故か自殺の可能性が一番高い。家族はどう思うだろうか、と道徳的なことを考えて自殺しようなんて思っちゃダメだなんて自分に説いてみたり。
家族と少ない知人はきっと悲しんでくれるだろうなと思ったし、尊属より先に亡くなるのは結構親不孝で禁忌な感じもした。
それでも結局は希死念慮はどこへも行かず、むしろ肩に重くのしかかってしまった。案外葬式を終えて仕舞えばみんな気が楽になるという現実も見てしまったからかもしれない、それに生きてるより死んだ方が何かと美化されるので、生き汚く死にたいながら生きるより、あっさり死んでしまった方が自分と周りのためになるんじゃないかって結論に至ってしまった。
タナトスは理屈や道徳でどうにかなる相手じゃなさそうだ。
それでも自分が死んだら悲しむ人もいるし、何より愛する存在のためになんとか生きている感じ。だけど結局根本の空虚さは変わらない、何故なのか。楽しいことも一瞬で霞んだ思い出になってしまう、美味しい食べ物にも心惹かれない。
精神科医ならきっと病気のせいだと言うけれど、双極性障害というのはとにかく本人に病識がない場合が多い。私も誤診なんじゃないかな、なんてなんて未だに思っている。ただの死にたがりの一般人に病名がつくなんて恐れ多いとすら思っている。
とにかく今日1日は死なずに済んだので、自分はよく頑張った。
それだけは全世界に発信したいと思って今日も文章を書き散らかした。