御前レファレンス。(16-2)
第壱回『雲云なす意図。』
♯16-2:蛛、結う糸。2
†
僕にその能力があったのではない。
そもそもが、である。
ふたりの人間の記憶や想いを無理やり合成した、非常に不安定な世界だった。
それにプラスして、他人のインナーワールドと同化しかけてる僕にとってイージーだったというだけ。
「――いた!」
僕は、㐂嵜さんの左手首をにぎって引っ張る。
すでに僕の存在は薄れかけて、もはや一本の糸で輪郭を縁取ったくらいのカタチしかなかった。
「間に合った……?」
僕はもはや一本の糸だが、㐂嵜さんを連れてくることができた。
平埜さんのもとへ。
ふたりは、同じ場所、同じ空間に居た。
――この場所は、ふたりの記憶にある場所。
……なのだろうか?
分からなかった。
僕がもはや一本の糸なので思考回路が何処にもなくなったせいかもしれない。
もしくは、此処が何処でもない場所だからかもしれない。
周囲にはなにもない。
色は、たぶん真っ白。
無色透明かも。
なにぶん、もう僕は一本の糸なもので。
㐂嵜さんの手首をつかんでいたが、スルスルとほどけた。
なにぶん、僕は糸なので。
ふたりのあいだを一本の糸がふわふわと漂っている。
平埜さんは無色透明で真っ白な空間に膝を抱えて座っていた。
㐂嵜さんは、無色透明で真っ白な空間でただ立ち尽くしていた。
「藍那……」
㐂嵜さんがぐるぐる巻きの糸を目の前に、蚊の鳴くような声でささやく。
声はちいさくて、届かない。
二センチメートルで消えた。
目の前にいるのに、㐂嵜さんの声は届かない。
「ごめんね、沙香ちゃん。私が弱い人間だから」
平埜さんの心の声が聴こえてくる。
だけど、目の前にいるのに、㐂嵜さんに届かない。
この無色透明で真っ白な空間は、ふたりが自分を捕らえるためのぐるぐる巻きの糸で作られた空間だったのだ。
もはや、僕は自分が何処にいるのかさえも分からなかった。
糸なもので。
周囲と同化してしまっていますので。
無色透明で真っ白な空間と同化してしまっている僕には、この場所がふたりの『想い』で満たされていると分かった。
でも、ふたりともそれに気づいてない。
気づいているのかもしれない。
でも、ふたりともすれ違ってしまっている。
どんなに想っていても、
どんなに相手のことを考えていたとしても、
――伝えないといけないのに。
ふたりの想いはこんなときにもすれ違ってしまっているんだ。
㐂嵜さんはただ立ち尽くして、平埜さんは膝を抱えている。
ほんとうは、ふたりは見えない〝なにか〟で、つながっていたはずだった。
それは糸のようなモノ。
けど、人間は目に見えないと不安になってしまう。
目には見えなければ、そこには存在しないと思ってしまう。
だから、ひとは目には見えないモノを見ようとして、存在を生み出そうとするのだ。
絵に描いてみたり、形あるモノにしてみたり、名前をつけたりする。
目には見えないはずのモノがカタチを持つことで、それは可視化され、具現化され、存在を認識されることになる。
そうすることによって、ひとは安心することができた。
でも、忘れている。
カタチを持つモノは必ず最後には壊れてしまうことを。
たとえば、人と人をつなぐモノだ。
本来なら、そこにあるけれど目には見えないモノのはずだった。
しかし『絆』と誰かがそれを呼んだ。
誰かが『絆』をカタチにしようとした。
そして、絆はカタチを持った瞬間、
――いつか壊れてしまうモノになったのである。
こんなに哀しいことはない。
きっと、ふたりの間にもあったのだ、目には見えないモノが。
しかし、ふたりの〝想い〟は、〝蠧魚〟にとってはただの触媒にしかすぎなかった。
運が悪いといえばそうだろう。
彼方側と此方側を隔てる壁から滲み出てくる〝蠧魚〟は、不可思議な事象、現象として、まさに稀代だ。
ごくごくほんのわずかな、天文学的な数字の確立で、滲み出し、ひとの記憶や感情に干渉する。
ふたりの想いも蠧魚にとって、こっちの世界でカタチを持つためだけの、ただの餌贄にしかすぎなかった。
ふたりの想いや感情は、蠧魚に〝姿容〟をあたえる。
それが巨大な蜘蛛であり、〝糸〟だ。
あの〝糸〟は、㐂嵜さんだけではない、平埜さんだけではない。
ふたりの想いが具現化したモノ。
だから、㐂嵜さんにだけ見えた。
平埜さんもおそらく、気づいてたんだろう。
分かってて、気づかないフリをしたのだ。
「――本当は、そのほうが楽だったから」
平埜さんの心の声が聞こえてくる。
彼女の本当の気持ちを伝えている。
ほら。
その想いも気持ちも、言葉にして伝えなきゃ。
僕に伝わっても意味がないんだから。
ふたりはどうしてすれ違う。
こんなに想っているのに。
〝蠧魚〟がそれを望んでいるから――
ふたりが通じ合い感情が安定するよりも、ふたりがすれ違い感情をたかぶらせたり、滅入ったりさせたほうが、大きな感情を喰らうことができる。
そしてより、強大な存在となる。
〝蠧魚〟に目的はない。
あっち側では、何者でも何物でもない。
だからただ存在がほしいだけ。
存在する理由を得る。
それだけのために、ひとの想いや感情を欲する。
なら、
僕ができることは――
ふたりをぐなぐことだ。
気持ちが伝わるように。
想いを伝えられるように。
ちょうどいい。
――僕は糸なもので。
ふたりをつなごう。
ふたりをつなげる〝糸〟になるんだ。
そうだった僕は、ふたりをつなぐ〝意図〟だ。
インナーワールドに同化してしまって、もはやふたりの目には映らないだろうけど。
僕はふたりをつなぐ。
〝糸〟ですので。
スルスルとふたりの指に巻きついた。
小指と小指を〝糸〟でつなげてみた。
小指は見えない運命の赤い糸が結ばれるからだ。
見えない運命の赤い糸は見えないのに、どうして赤いと分かったんだろう。
まあ、いいか。
僕は〝糸〟ですので。
ふたりの想いをつなぐ。
タダソレダケ。
もはや、そこに僕の意識はなく、そこにあるのはふたりをつなぐ〝意図〟だけである。
「――ごめん、藍那」
「――ごめんね、沙香ちゃん」
すれ違いながらもふたりの想いは交差していく。
「私が弱くて、甘えていたから」
「そんなことない。わたしが藍那のことを思い通りにしようとしてたの」
「違うよ。私が思い通りにさせていたの」
「違う。わたしは藍那を応援するって言ってたのに、がんばって変わってく藍那に腹を立ててた。自分がなれない人間に藍那がなっていくみたいで」
たくさんのひとがすれ違い、行き交う。
ふたりはそんななかで、お互いを見つけ、手を取り合って、笑っていたはずだった。
その居心地のよさにふたりは、酔いしれ、幸福を感じていた。
けど、いつしか『ずっとこのまま』ではいられないと悟った。
自分ではなく、相手のために。
「人見知りすぎて、他人のひとうまく話せなくて、笑うことはもちろん愛想笑いすらできなかった。けど、沙香ちゃんはずっと私といっしょにいてくれた。だから私はいつも笑顔でいられたの」
「そうじゃない。わたしは自分の思い通りになる、自分の言うことだけを聞いてくれる藍那の存在を利用してた。だって、わたしはふつうの人間だったから。華やかなひとたちと交れなくて、馴染めなくて。藍那はおとなしくて、文句のひとつも言わないで、わたしといっしょにいてくれるから。藍那がいたからわたしは自分は惨めじゃないと思えた」
「ううん。私だってそう、誰かにこうしろああしろって言われたほうが楽だった。ずっとそうしてきた。全部他人に任せで。だってそうしてれば、なにもかも他人のせいにできるでしょ? 自分は悪くない、他人が決めたことなんだからって。沙香ちゃんに私が考えなきゃいけないこととか、決めなきゃいけないことを全部押しつけたのに……。私に笑いかけてくれた。わたしはずっとそれを利用しつづけてきた」
㐂嵜さんは平埜さんに依存していた。
平埜さんは㐂嵜さんに依存していた。
ふたりはたがいに依存しあっていた。
だけれど、その関係は、凸と凹でも磁石のS極とN極の関係ではなかった。
どちらかといえば、傷を舐め合うような、利害の一致した利己的な関係だったのだろう。
ふたりは、ある日、ふとそれに気づいた。
気づかないフリをしつづける方法もあったろう。
それでも、ふたりは、おたがいにおたがいを想って、変わることを選んだ。
そのとき、たまたま偶然不運にも、強い想いもやさしい気持ちも、あっち側にいた〝蠧魚〟に狙われることになってしまう。
大丈夫、あたしとミサキみたいにつながってる。
こうして意識や気持ちや思いはつながってる。
だから、ふたりにもそうしてあげて。
ふたりの気持ちを僕をかいしてつなげる。
「わたし、自分が惨めにならないように藍那を利用してた。それを変えたくて『ゼミに入れば?』って言った。突き放すつもりだった」
「私だって、沙香ちゃんに押しつけてばかりだったでしょ。だから、自分だけでもちゃんとがんばらなきゃってゼミに入ろうと思った」
誰かにとっては取るに足らないささやかな変化。
「だけど、わたし、やっぱりほかのグループの子たちといると一番になれるはずもなくて、もっと可愛いことか派手な子とか目立つ子がいるから、自分がすごく惨めでイヤなヤツだって思い出してしまった。そんな自分がすごくイヤで、嫌いで。藍那といっしょならそんな気持ちも薄まる。藍那はわたしのことを見てくれるし、わたしのことを頼ってくれてる。でも、それじゃあ、ダメなんだよね」
「私は、他人に合わせるのが苦手でしょ? でもゼミで、沙香ちゃんみたいに笑顔で明るく振る舞ってみたら、ゼミのひとたちと話せるようになってきた。打ち解けた気がして、よけいに明るく振る舞った。でもそうなったフリをしてるだけ。私は変わったんだって思いこんでた。でも、独りになるといつかの自分に戻る。そんな自分がすごくキライで」
ふたりとも自分自身を変えようとした結果。
自分のためじゃなく、友達のために。
それは間違いじゃなかったのかもしれない。
相手のために自分を代えなければならないから、まずは相手と自分の関係を変えようとした。
自分自身を押しこめることで、他人が望む自分になろうとした。
それが、ほんとうにほんとうに、ささいなすれ違いを生んだ。
ふたりの不可思議な〝糸〟は、こうして生まれた。
蠧魚が具現化したとき、
〝糸〟のカタチをしていたのは、ふたりをつなぐのは見えない運命の糸だから。
巨大ではあるけど〝蜘蛛〟のカタチをしていたは、おたがいにとって地獄から救い出してくれる『蜘蛛の糸』だったから。
それぞれが本来は、おたがいを想いやるあったくてやさしい〝意図〟を持っていたはずが。
蠧魚なんかに邪魔されてはいけない。
阻まれてはいけない。
諦めてはいけない。
僕は、最後に、
――届け!
――響け!
ふたりの声を伝えてほしい。
たとえば、
〝糸電話〟みたいに。
そう思う。
僕は糸ですので。
張り詰めた〝糸〟が、想いを伝える。
声は振動して〝糸〟を震わせる。
想いの〝意図〟を届けるために。
きっと、誰かにとってはどうだっていいこと。
取るに足らない些細なこと。
ふたりは、世界を揺るがすような、世界が崩壊するような、世界の終わりがくるような気がしてしまったんだろう。
それでも、
――大丈夫です。
だって、ふたりなんだから。
根拠のない根拠のない自信を添えて、
これを僕の、今回の不可思議なレファレンスの『回答』とする。
†
そのとき。
彼女たちは瞳を開いた。
手を伸ばす。
手をにぎる。
「藍那、ごめん」
「沙香ちゃん、ごめんね」
「ううん、ありがとう」
「こちらこそ、ありがとう」
重なったふたつの手のひらから、思わず目をそらしてしまうほど、まぶしい光が放たれる。
その光に溶けて、解けるみたいに空間を支配してぐるぐる巻きの糸が消え去っていく。
僕もいっしょに消えていく。
糸なので。
糸ですので。
と思ったんだけど、
「――ちょい待ち!」
ヒバナの声が鳴った。
無色透明で真っ白の空間に、淡い薄紫色の粒子が飛びこんでくる。
その粒子は、糸のように伸びて、いつのまにか手となり、腕となって、僕をつかんだ。
「あっぶなー、セーフ!」
目の前でヒバナが笑ってた。
巨大な蜘蛛の足を両脇に抱え、とんでもない状態のヒバナが僕に笑顔をふりまいてきた。
「――ヒバナ?」
「ミサキ、両手に花だね!」
「え? どういう!」
いつのまに僕は両腕に、㐂嵜さんと平埜さんを抱きとめていた。
「え、これって?」
僕は、現実の世界へと戻ってきていた。
さっきのあれは?
消えそうな僕をヒバナが連れ戻してくれたのだ。
「ってことで、こっちも店じまいします!」
ヒバナが言った。
「うららぁ~~~~~~~~~~っ!」
あいかわらず緊張感のカケラもない雄叫びで、ヒバナが地面を蹴った。
「ヒバナだなぁ」
と何故か感心してしまった。
それとともに、妙な安心感に全身が包まれた。
ヒバナは、
蜘蛛の足を抱えたまま、
身体を反り返す。
ゆっくりゆっくりスロウモーションみたいに、蜘蛛の巨体が宙に浮き上がる。
巨大な蜘蛛は、させてやるものかと粘り腰を見せる。
「もうすっかりクライマックスなんだから、空気読めバっきゃろー!!」
いったいどっちが空気を読めてないんだか分からないくらいに場違いなテンションで、ヒバナが雄叫んだ。
「浮いてる……!」
この後におよんで、まだ僕は驚かされる。
巨大な蜘蛛の肢体が地面から完全に浮き上がっていた。
「いけーっ!」
僕も思わず声が出てしまった!
――ぎぎぎぎぎぃぃぃぃぃいぃぃぎぎぎぎぎぃぃぃぃっ!!
蜘蛛の鳴き声がこだまする。
僕にはまるでそれが蜘蛛の困惑と悲鳴に聞こえた。
巨大な身体を震わせながら〝蠧魚〟は、自分よりもはるかにちいさく花車なヒバナという人間に対して恐怖を覚えていた。
目には見えないモノが視えて、それに対抗しうる能力を持ったヒバナは、
僕らが蠧魚と呼ぶ〝アレ〟の、いつだって最大の『天敵』である。
「どっこい――……、しょーたろう!!」
バカみたいなかけ声だ。
バカみたいなことに、巨大な蜘蛛が宙を舞い、美しい放物線を描きながら、地面へと堕ちていく。
この世で一番、雄大で壮大で美しいフォームで放たれた究極の一撃。
「フロントニースープレックス――……ッッッ!!」
魔法陣が輝きを増す。
すべての光をあつめて、ヒバナが最後に残ったチカラをすべてブチこんだ。
蜘蛛が沈んでいく。
文字通り、淡く薄紫色に輝く魔法陣のなかにズブズブと沈んでいく。
最後の瞬間を迎えたらしい。
完全に、巨大な蜘蛛が魔法陣に沈んで消え去った。
消えてなくなったのか、それともあっち側に還っただけなのか。
僕には分からなかった。
淡く紫色の粒子が空へと翔っていく。
魔法陣とともに《結界》もその役目を終えて、消えていく。
ヒバナがくるくる宙を待って、僕のすぐ傍に着地した。
カノジョのその瞳は淡い薄紫色の光を宿していなかった。
ヒバナの目にはもうなにも映ってない。
「ミサキ、ちょっと遅刻じゃない?」
「ごめん」
「まー、おかえり」
「ただいま、ヒバナ」
僕がそう言うと、
カノジョは笑った。
ひどく綺麗に笑ったんだ。