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diver 第一部 第四話

【 1 三差路 】

 今夜は蒸し暑く、何度も目が覚める。脳内に感じる鉄臭さは、僕が僕自身の幕を開けなくてはいない時期に来ていることを予感させる。誰かのために誰かのこころに潜入するばかりでなく、そろそろ僕自身のこころに入り、僕の真実に気づこうとしなくちゃいけないな。

 マリさんが時々放つ言葉は、僕の好奇心のベクトルを少しずつ軌道修正させていたようだ。

 今夜、何度目かの覚醒のあと、僕は僕の中に広がる蒼い世界にもう一度、挑んでみたいと思った。以前に一度だけ試みたことがあった。潜ってみると、そのときと似たような光景が。この三差路……。右に進めば、あの狐色をした光の玉に繫がる。いつも僕は、右の「それ」ばかりを追い求めてきたよな。右側は誰かの苦悩。三差路の左道の先は、ぼんやりしていてよくわからない。そうこうしているうちに立ち往生し、真正面の透明な壁にぶつかってしまう。それでもうこれ以上は進めなくなる。

 そうだ、僕はいつも、こころの中の光を掴むときに右手を使っていた。右を伸ばすのだから、右側の世界に散らばるものばかり見てきたんだ。それなら、左手を伸ばして、左手で掴んでみたらどうか……。僕自身の中に広がる蒼い世界の僕の「それ」、宝物かな、つまり置き去りにしてきた様々な事実と思い出に触れられるかもしれない。

 高校生より前の記憶を失った、僕。

 宇宙はどちらも広大で無限だ。外に広がる宇宙、マクロ・コスモスと、内に広がる宇宙、ミクロ・コスモス。

 「空間象徴理論」は言っているじゃないか。右は外界、左は内界、だと。上は未来、下は過去、だと。これまでの僕に足りなかったのは、左下へと向かう勇気だったんだ。

 神田周面の地図を出して、見る。ここ神田紺屋町から左下の方向、トライアングルの3つの頂点、お茶の水ー浅草橋ー神田橋のうち、そう、左下は神田橋だ。神田橋を道標として泳いでいこう。そうしたら、三差路で行き詰まってしまう堂々巡りから抜け出せるかもしれない。

 僕は自分のことをもっと知りたい。他の誰かのこころに潜り続けながら、時には僕だけの世界をも泳ぎ回って、僕の「それ」ともコンタクトしたい。

 こんな空想のあとの眠りから覚めた朝、久々に爽快感を覚えた。きっと今日は晴れるだろう。


【 2 食い違う夫婦 】

 予感は当たらなかった。今日もじめじめした曇り空で、時々心地よい冷たい雨の雫が落ちてくる。湿気臭い今日の最初のカウンセリングは、若い夫婦の初回だった。申し込み用紙に記された相談内容は「夫婦関係について」だ。「言い合いになってしまう」と続く。「仲良くしたいのに」とも記されていた。

 「私、不眠で……」

 開始早々、妻のほうから切り出した。

 「夜、夫の歯ぎしりといびきがすごくて、私眠れないんです」

 すると夫が反論した。

 「違う、違う。妻の寝相が悪くて、派手に寝返り打つから、俺のほうが眠れないんだよ」

 「何言ってるのよ。あなた自分のいびきの音に気づいてないの? 知らないからそう言えるのね」

 「それはこっちのセリフだ。お前、自分が激しく動いているのを知らないんだな。俺のほっぺたを平手打ちしたこともあるんだぞ」

 まだ若い夫婦。ダブルベッド一つで眠る夜は、いつも戦場と化すらしい。

 (妻)「先生、いびきや歯ぎしりって、本人は気づかないものですよね。この人みたいに」

 「はぁ、眠りが深いときには気づかないでしょうね。眠りが浅いと自分の出す音に気づくものですよ」

 (夫)「先生、寝相が悪い人って、自分では気づかないですよね。うちのやつ、全然知らないって言って、いつも派手に動き回るんですよ」

 「はい、激しく動いていても気づかない人はいますね。どうして枕がこんなところに移動してるんだろう、と後から不思議に思ったりして。起きたら回転していて枕のほうに足があった、ていう人もいましたね」

 (妻)「何言ってるのよ。私いつもあんたがうるさいから、不眠になっているのよ!」

 (夫)「それは俺のセリフだ。お前が動き回るから、俺のほうが不眠なんだ!」

 「はい。お二人ともそこで止まってもらえますか。このようにすぐに言い合いになってしまうのが、相談したい夫婦関係の一つなんですね?」

 「はい、そうです……」と、妻。

 夫も頷く。


【 3 提案 】

 「事実を知ることにも意味があるかもしれませんが、その前にちょっと言い方を変えてみましょうか。奥さんは、ご主人のこと、あんたとか、この人とか言うのをやめて、王子様に言い換えてみてください。ご主人は、おまえとか、うちのやつをやめて、お姫様と言い換えてみてください」

 「えっ?」

 「ほら、ここでさっきの続きをやってみましょう。お互い呼び名を言い換えながらですよ」

 (夫)「やりにくいな……」

 (妻)「むずかしいわ……」

 「さあ、やってみて」

 (妻)「はい……。じゃあ……。王子様のいびきや歯ぎしりがうるさくて……、私は眠れないです」

 「さあ、ご主人も」

 (夫)「ええ……。お姫様の寝返りが派手で、なかなか眠れないんだよ」

 「続けてみよう」

 (妻)「王子様のいびきの音のせいで、私は不眠だわ」

 (夫)「お姫様がよく動くから、こっちが不眠になる」

 「その調子。次からは、自分のことを呼ぶときにも、王子様とお姫様でいきましょうか」

 (妻)「えーと。王子様のいびきのせいで、お姫様は眠れなくなっています」

 (夫)「いいえ、お姫様の寝返りで、王子様は眠れていないです」

 「うん、いいですね。ここでお互い、呼び合ってみて!」 

 (妻)「……、王子様……」

 (夫)「……はい、お姫様……」

 (夫婦)「…………」

 「どうですか? 言い合いのほうは」

 (夫婦ほぼ同時に)「やりにくいです」

 「そうですよね。今日から家で会話をするときも、相手や自分のことをそう呼んで言い合いをしてみてください。敢えて、言い合いをするんですよ」

 (妻)「先生、これって何か意味があるんですか?」

 「もちろん、あります」

 「……」

 「言い合いや夫婦喧嘩になるとき、必ず、相手や自分のことを王子様、お姫様と呼びながらやってみてください。そうしたらどうなるか、次のカウンセリングで教えてくださいね。これ、課題、うーん、宿題とします」

 (夫)「わ、わかりました……、やってみます」

 翌週、二人はカウンセリングに訪れた。

 「どうでしたか?」

 (妻)「よほど意識していないと、あんた、と言ってしまいますね。気をつけて王子様と呼ぶと、あまりイライラしないかもしれません」

 (夫)「私もそうです。つい、おまえ、と言ってしまいますが。いかんいかん、お姫様と言うのが宿題だった、と気を取り直してやってました」

 「呼び方に注意を向けると、そこにこころのエネルギーが注がれますので、音や動きで眠れないことの重大さが相対的に小さくなり、不快感が和らぐものなのです」

 (妻)「でも、やっぱり気になるわ、いびき」

 (夫)「私も、妻の大きなアクション、気になります」

 「気になるのが自然でしょう。そのまま続けてみてください。そうだ。今日は、奥さまはジュリエット、ご主人はロミオ、それで言い合いをしてみましょう」

 (妻)「えっ、また今からやるんですか?」

 「はい、お願いします」

 (妻)「ロミオ、あなたのいびきのお陰で、私……ジュリエットは眠れないわ」

 (夫)「そうか、ジュ、ジュリエット。ロ、ロミオはジュリエットの寝返りのために、ね、眠れないよ」

 「素晴らしい! 優しい表現になっていますね。今日から、王子・お姫様デーと、ロミオ・ジュリエットデーを、交互にしてやってみてください」

 (妻)「やってみます……」

 「ところで、私もお二人が眠れない実情を知りたいので、ビデオ・カメラとか携帯とかで、眠っているところを録画しておいてもらえますか? 一晩でいいですから。そしてそれを二人で一緒に見て、あとで私にも見せてください」

 「は、はい……」


【 4 自撮り 】

 翌週、二人はビデオカメラを持って、訪れた。録画を見て愕然としたという。お互いに、相手を非難するばかりでなく、自分のことを随分と考えるようになっていた。私もその場で、早送りを交えながら見せてもらった。

 <ビデオ>

 間もなく眠りに落ちた夫。いびきをかくと、妻は夫の身体を肘でつついた。それでいびきは収まった。しかしまた始まる。そして肘。その応酬が繰り返され、肘鉄がだんだん強くなる。そして、妻はとうとう夫の鼻をつまんだ。夫は苦しそうにして口を開いた。やがて、夫の鼻を洗濯ばさみでつまんだり……。はじめのうちは、このように、夫からの睡眠妨害に対して妻が反撃する場面が多かった。

 何時間かたって妻が熟睡すると、妻に異変が起きた。突然上体を起こすと、夫のほうを見て、平手打ちをした。夫は覚醒水準近くまで引き戻されたが、また眠った。妻がまた起き上がり、夫の顔の上に覆いかぶさった。夫は苦しそうにしていた。そして妻は立ち上がると、夫の身体を踏みながら移動し、カメラの視界から消えてしまった。戻ってくると、夫を踏んで通り、自分の定位置に収まった。夫が目覚まし、妻のほうを見て「ちっ!」と音を立て、眠りに戻った。次に妻が上体を起こすと、枕を持ち、それで夫の顔を叩き出した。夫は「うー」と声をあげ、寝ぼけたように「おい、やめろ!」と言い、眠りについた。

 「お二人とも、いろいろとやられているようですね」

 (妻)「私たちこんなことやっていたんだね、って観たあと話し合ったんです」

 「それで?」

 (妻)「どっちもどっちだね、って」

 「ご主人、いかがですか?」

 (夫)「はあ。お互いさまなんだなと思いました。恥ずかしいですね」

 「何が恥ずかしい?」

 (夫)「私の妻があんなことをしていたなんて。人に言えませんよね。それに隣にいた自分も気づかないでいたなんて……」

 「その後、夫婦の言い合いは?」

 (夫)「まだ言われますが、妻が謝ってからは可哀そうに感じ、強く言い返さなくなったと思います」

 (妻)「ほんと、恥ずかしい。でも、私からうるさいと言うのは減ったと思います」

 「不眠のほうは?」

 (妻)「いびきとかまだ聞こえますが、前ほど気にならなくなりました」

 「ご主人は?」

 (妻)「どうしようもないことなんだなぁ、って思いました」

 「何のことですか?」

 (夫)「私のいびきも、妻が動くのも」

 「そうなんですね。お互いに邪魔しようとする意図はない。自分の姿を知ることで関係性を見直すことができ、自分や他人のありのままを認めることができるようになるかもしれません。見直すことをしないで相手にばかり原因を求めてしまうと、解決するどころか、かえってイライラが募るばかりです。すべての人間関係は、このように相互的、お互い様なんですね」

 (夫婦)「はい」(妻は、涙ぐみながら)

 「これから、別のことで言い合いが起きるかもしれません。それでも、呼び名を変えて言うのを続けてみてください。ねえ、ロミオ様、ジュリエット様。そして、今回観たビデオの映像のことも、思い出してみるといいかもしれませんね」

 騒動の最中に自分を客観視することは難しい。セルフモニタリングを機能させていれば、騒動を和らげたり、その根源に潜む重要な何かを知る手がかりが得られたりするものだ。

 僕は、この夫婦のカウンセリングのあと、自分を録画してみることにした。睡眠中に、だ。まるで僕自身が孕む謎を知る「弾み」となるために、この夫婦が訪ねてきたようなタイミングだった。

 大学院生時代に買った少し古いビデオカメラ探し出し、三脚に固定した。そして寝室の、ベッドから一番遠い隅に持っていき、三脚の足を最大に伸ばして、ベッドを見下ろすように置いた。カメラの中には512GBのSDメモリカード、少なくとも8時間は記録できる。

 設置して初日、疲れていたためかすぐに眠った。僕は上を向いたまま微動だにしない。早送りをして見るが、時々首を動かすぐらいだった。毎朝腰が痛いと感じるのは、適度に寝返りをうっていないことが理由かもしれないと、わかった。

 毎日記録を撮り続けて4日目、目を疑う光景を見なくてはならないことが起きた。僕が、普通に起き上がり、ベッドから降りて、すたすたと歩いて寝室を出ていったのだ。時刻は、カメラの記録では午前4時過ぎ。歩いていった方向はダイニング・キッチン。その先にリビング、つまりカウンセリングを行う部屋がある。カメラの視野から消えたのは30分以上。どこへ行って何をしていたか、わからない……。これはこの日だけなのか、頻繁に起きているのか。

 撮り続けると、前回の異変からまた4日後、同じことが起きていた。僕は4日ごとに夜中に歩いているのか。睡眠時遊行症、いわゆる夢遊病と言われてきたもの、それも定期的に?

 その4日後、今度は寝室を出た先の様子が映るように、カメラを隣の部屋に移動させ、部屋の多くが入るようにアングルを調整した。そして翌朝、録画記録を調べてみる。

 予想通り、僕は寝室から出てきた。ダイニングをそのまま通り過ぎると、リビングへ入っていった。そこで左に行きいったん視界から消え、再び見えるようになると、今度はリビングを出ていった……。その先は見えない。しばらくして戻ってくると、また左側へ寄って姿を消したあと、ダイニングを通過して寝室に入っていった。

 僕の睡眠時遊行の行動パターンがおおよそ判明した。ベッドから起き上がり、ダイニングを通ってリビングへ行く。そこで左側のある場所に寄ってからリビングを出ていく。リビングの外はマリさんとの共用部分だ。外で20分程過ごしてから、逆のルートを辿って戻ってくるのだった。リビングの左側に寄る理由は何か、そして外で20分間も何をしているのか。それを確かめなくてはならない。一台のカメラで撮るのは効率が悪い。秋葉原のリサイクルショップで、安いビデオカメラと三脚を買った。そして次の4日後に、2台のカメラで備えたのだ。


【 5 ウィルスが狙う先 】

 こうしてわかったことがある。正直、それを認めるのは怖い事だった。だが、確かに僕はそうしていた。認めなくてはならない。

 午前4時頃、リビングへ行き、電話台代わりに使っている木製レターケースの3段目の中にしまった箱から鍵を持ち出し、玄関に寄る。玄関では靴収納棚を開け、僕が使っていない最下部を調べてから、階段を上がり2階へ上がっていく。マリさんのリビングを鍵で開けて、中に入ってしまう。上で何かをしているのは、時間がかかっていることから容易に推測できる。マリさんに失礼なことをしてしまってはいまいか……。僕はマリさんにとって有害なウィルスだ! マリさんを攻撃してはいけない!

 マリさんが出かけている昼下がりに、靴収納棚の最下部を調べてみた。マリさんの靴やブーツの空き箱があるだけで、僕に必要なものは何もない。おかしい……。「いけない」と思いながらも、階段を上っていった。あの鍵を持って。そして、震える右手でマリさんの部屋、リビングの鍵を開け、入った。相変わらず綺麗に片付いていて、僕の部屋とは大違いだ。僕がユミエとその娘のリコの家庭を訪問し、そこで出された薬で混迷状態に陥って帰宅して以来のことだ。懐かしいな。ここはとても気分が落ち着く……。

 窓を見た。レースのカーテンが閉まっている。ベランダへ出ようと窓に近づき、大窓の鍵を……。いや、開いたままだ! 不用心だなあ。僕はレースを開き、大窓を開け、ベランダへ出ようとした。

 「あら、泉くん!」

 ベランダにはマリさんが立ち、僕のほうを見てほほ笑んだのだった。

 「ごめんなさい。マリさん……」

 「何のことかしら?」

 「勝手に鍵を開けて入ってしまったこと」

 「それだけ?」

 「いや。恐らく過去に何度も、勝手に入っていたと思います。

それも未明に」

 「それだけ?」

 「いやぁ、よくわからないんですけど、もしかしらマリさんに何かしてしまっていたかもしれないし……」

 「泉くんが私に?」

 「はい。僕はマリさんを襲うウィルスのような存在じゃないかって……。そう思ったんです」

 マリさんは、笑っていた。不思議だ。

 「そうねぇ。なぜウィルスなの?」

 「ウィルスって、細菌と違って細胞をもたないじゃないですか。他の細胞に入り込んで、細胞が増殖するときにウィルスもついていく。こうやって、その人の体内でウィルスに侵された細胞がどんどん増えていく」

 「でも、どうして泉くんが私を襲うウィルスなの?」

 「具体的には……。僕がマリさんに何をしたかはわからないんですけど、未明の4時に勝手に鍵を開けて侵入しているんです。それも一回ではなく、もしかしたら4日おきに。マリさんが4日ごとに僕に何かされていたかもしれないんですよ。純真なマリさんがどんどん汚れていく。ウィルスが増殖していくイメージにぴったりなんです」

 「仮に泉くんがウィルスとするなら、免疫システムが働くわよ」

 「それは知っています。第一段階の粘膜免疫で侵入を食い止め、第二段階の全身免疫で入ってきたウィルスを排除しようとするものですよね。こうして室内まで突破していることは、少なくとも粘膜免疫が機能していないことを意味します。マリさんが自分の寝室にも鍵をかけていない限り」

 「そうね。私、寝室には鍵をかけていないわ」

 「やっぱり……」

 「それで、第二の全身免疫というのは私を守らなかったのかしら?」

 「わかりません。マリさんが目覚め、僕をたしなめてくれていたか、まったくわからないんです」

 「もし泉くんが私の部屋へ来て、ウィルスとして侵入しようとしたら、きっと私が本来もっている自然免疫が強烈に働いたと思うわ。そして何度も襲ってきていたとしたら、獲得免疫も働くようになったのではないかしら? これって全身免疫のことよね?」

 「はい、そうですが。そのウィルスを持った細胞が分裂して増殖していく過程で、異常な細胞が生まれ、免疫システムでは排除できない癌になり、蓄積することもあるんですよ!」

 「ウィルスを持たない細胞でも、分裂を繰り返して癌化することがあるわ。癌化を引き起こす原因はたくさんあるの」

 「それはあります。でも、ウィルスが侵入した細胞のほうが癌化しやすいですよ」

 「話が難しくなってきたわね。泉君っていう名のウィルスは、私を癌にしやすいのかしら」

 「わかりません。これはたとえです。ただ僕がそう感じたんです。あまりにもショックで……」

 「私が今のところ分かっていることを話すわね」

 「はい、お願いします」

 「それは、泉くんのウィルスは、泉くん自身を狙っていたということよ」


【 6 不可解な動機 】

 「言っている意味がわかりません。僕は勝手にマリさんの部屋に入っているんですよ」

 「そうよ。何のために入ってきたのか、わかる?」

 「それはわかりません」

 「何をしていたのか、わかる?」

 「それもわかりません」

 「暑いから、私も部屋の中に入るわね」

 「あぁ、気づかずすみませんでした」

 「私が立っていた位置、大体でいいから覚えていてね」

 そういうと、マリさんはトートバッグを手にして部屋に入ってきた。そしてエアコンをつけた。「ほらっ」と言いながら手に持っていたものを僕に渡した。バッグの中には弓型ノコギリが入っていた。

 「これは?」

 「そう、靴収納棚の一番下に置いてあったものよ」

 「えっ。もしかして僕がいつもそこを探していたのは、それだったのかな?」

 「私はそう思うわ」

 「何のために?」

 「私が立っていた場所、わかるわよね?」

 「ええ」

 「その場所って、泉くんに関係があるんじゃないかしら」

 「看板を縛りつけていた辺りですね」

 「そう。私ね、今、針金が巻いてあったところ、手すりとか柵とかをよく見てたの。それで、少し削られているのに気づいたの」

 「つまり、その弓型ノコギリで擦った跡かもしれないということですね」

 「ええ。絶対に切れない針金を、この弓型ノコギリで切ったんじゃないのかな」

 「なるほど、わかってきました。心理相談所の看板を落とすためですね。絶対に切れない針金はニッパーなどでは切れないから、その弓型ノコギリで時間をかけて切ったということですか」

 「時間がかかったかどうかは、わからないわ。このノコギリの替え刃が特殊なの。どうもダイヤモンド刃のようなのね」

 「それなら、あの針金を切ることができるかもしれない……」

 「そう。それでね、これを使ってベランダの柵に少し傷をつけてみて、少し前についてた傷と似てるかどうか、比べていたのよ」

 「それで?」

 「私が見る限り、同じ傷に見えたわ」

 「それを実行したのが、僕ということなんですね」

 「ええ」

 「僕が未明にここへ上がってきていたのは、そのため?」

 「ええ、そう思ってる」

 「もしそうなら、二つ疑問があります。どうして僕がそんなことをしなくちゃいけなかったのか。そして、看板を落としたあとも続けていたのはなぜか?」

 「それはわからないわ。泉くんのこころのことだもの」

 「確かに、記憶にないことで、ビデオで初めてわかったことです。睡眠遊行症のようにやっていたから、僕自身の無意識の中に動機があるとしか考えられない」

 「そうね。泉くんが自分のやりたい仕事を邪魔するようなことをしていた。だから泉くんのウィルスは泉くんを狙っていた、って言ったのよ」

 「じぁあ、僕が勝手にここに入ったのは、マリさんとは関係ないということですか?」

 「ええ、私はそうだと思うの。だって、私こう見えても感覚が過敏で、それにね……」

 「それに?」

 「私の寝室に入るドアは、開けると鈴が鳴るのよ。ちよっと開けてみるわね」

 そう言うとリビングから寝室に繋がるドアを引いた。「チリンリン……」と鳴る音がはっきり聞こえた。

 「どうして鈴を?」

 「少し前に、京丹後市へ取材に行ったの。そこにあった神社で買ったの。私たちのお守りになるような気がして」

 「京丹後市って、京都府の?」

 「ええ」

 「そんなところへ取材?」

 「そこには羽衣伝説がいくつかあるからよ」

 (マリさんは以前、三保の松原の羽衣伝説を調べていた。それはダイバー伝説との関連だと思っていた。京丹後市にもダイバー伝説、すなわち潜水士のことが関係しているのだろうか)

 「でも、その鈴をどうしてドアに?」

 「自分が休む場所に出入する場所って、とても大切でしょ? 出るところ、入るところよ」

 「出入口……、確かにそうです。(僕が人のこころに潜り込むのは、大抵は目だ。出てくるところもきっとそうだろう)。僕のウィルスがマリさんを襲うものでなかったこと、教えてくれてありがとう。自責で押し潰されるところでした。これから、僕が無意識で自分の看板を落とそうと繰り返したこと、その意味も突き止めたいです」

 「いずれわかるといいわね」

 いつものマリさんの微笑みを、この時の僕は深く、素直に受け取ることができた。


【 7 相反するもの 】

 「私、泉くんのことがだいぶわかってきたわ」

 「僕のどんなこと?」

 「泉くんが誰かのことを考えるとき、一瞬、そこにいなくなるのよね」

 「そうですか。マリさんはすでに気づいていると思います。僕が人の心に潜り込んでしまうというと。きっとその時のことですよね。いなくなってますか?」

 「ええ、身体だけはある、っていう感じかしらね。俗にいう、こころここにあらずとはちょっと違うかな。こころを奪われている感じ」

 「はい、その通りです。ある人の心の中に没入してしまい、身体の自分は、多分抜け殻でしょうね」

 「ねえ、もしかして泉くん、今、人生の岐路に立っていない?」

 「なぜそのように思うんですか?」

 「なぜ繰り返して看板が落ちたか、やっとわかったでしょう? 自分が寝ている間に、無意識で落としていたっていうことに辿りついたでしょう?」

 「はい、こころが強く葛藤しているのだと思っています。マリさんが何気なく言ってくれたひとことがヒントで」

 「誰かのことばかりでなく、自分のことも、っていうことね」

 「はい。それで自分のこころに潜ってみる必要性を感じるようになりました」

 「それで、どうだった?」

 「方向はなんとなくわかっても、進展はありません。そっちへ進む足掛かりがないんです」

 「そうなのね。方向は?」

 「左手のほう。もっと現実的にいえば、この家から神田橋の方向」

 「何か意味がありそうね。神田橋に何かが見つけられそうなの?」

 「わかりません。直感で、そっちの方角なんです。行きたいのは」

 「ここから神田橋の方角ね。その先には何が待っているのかなあ」

 「わからないけど、僕にとっての真実が見つかりそうな予感はあるんですよね」

 「地図を持ってくるね」

 マリさんは、寝室へ入ると大きな地図帳を持ってきた。そしてリビングの床に広げた。

 「はい、30センチ定規よ。これでその方角を調べてみましょうよ」

 二人で膝をついて、床に這いつくばるようにして調べてみた。神田紺屋町のこの家から、神田橋にあてる。その先は……。

 「芦ノ湖ですね」

 「そうね、芦ノ湖があるわ」

 「ここにも羽衣伝説があるのかな……」

 「調べてみましょう」

 芦ノ湖は、3000年前に神山の水蒸気爆発で山崩れが起き、その堆積物によってでき上がった。元は万字ケ池と呼ばれ、9つの頭を持った悪龍が棲んでいたと言われる。

 「九頭竜伝説があるんですね」

 「そうね。どんな伝説でしょう。ググってみるわ」

 毎年7月になると池から現れ、村人を殺傷し、暴風で田畑を荒らした。これを鎮めるために、村人たちは若い娘を人身供養として差し出すようになった。

 「なんてひどい……」

 「そうね。とっても悲しい伝説だわ」

 この話を伝え聞いた萬巻上人が、村人たちを救おうとした。祈祷を続けること3日3晩、龍が現れ、赦しを乞うた。上人は逆さ刷りにし、すると悪龍は9つの頭を持った龍神になり、水を自由自在に操り穀物を豊かに実らす営みをするようになった。人々は龍神を慰めようと、3斗3升3合3勺の赤飯を大櫃に入れ、湖底に沈める竜神を慰めるようになった。それが現在に引き継がれ、7月31日を水恩感謝の夏祭り、湖水祭としている。

 「どう、泉くん、何か思い当たる?」

 「うーーん、わからない……。でも、水を自由自在に操るところは、気になります。潜水士は、うまく水とつき合うことが勝負ですから」

 「そう言われてみればそうね。泉くんの言う人のこころへの潜入って、水と関係しているのかしら?」

 「はい。蒼い水の中を潜っている感覚そのものなんです。イルカみたいに泳ぎ、息がとても長く続くんです。でも時々、苦しくなる時がある。水の奥底にある大切なもの、そう、イメージ的には狐色に光る玉のようなもの、それになかなか届かないとき、身体もこころも痛いんです」

 「そういう時って、左の手の方向なの?」

 「いいえ、いつも右でした。左手の方向に意識しようとしたのは、つい最近のことです」

 「そうなのね。この方向がやはり重要のようね。芦ノ湖以外にはあるかしら。手掛かりになるようなもの」

 「マリさん! この間、三保の松原に行っていましたよね」

 「ええ。羽衣伝説の松があったところよ」

 「そこが芦ノ湖の延長線上です!」

 「あら、本当だわ」

 「このドアの鈴は、京丹後の羽衣伝説の地で買ったものよ。私、確かめたいの。泉くんが、どっちなんだろうって」

 「どういう意味ですか?」

 「まだよくわからないから……。あとね、三保の松原で買ってきた鈴もあるのよ」

 「僕の感覚です。その2つの鈴を左手にして、左の世界に潜ってみたいです」

 「いいわね」

 「今からやっていみますね。背反するものが僕のこころの中にいて、落ち着いていられない」

 「いや、今すぐは待ったほうがいいと思うわ。外も暗くなってきているし」

 「なぜですか?」

 マリさんは笑った。

 「今夜、待ちなさい、って」

 「えっ?」

 「オヤジギャグよ。紺屋町」

 「……」

 「本当は、泉くんが疲れすぎているからよ」


【 8 もう一つの伝説 】

 僕は、看板を書き直した。

― 泉心理相談所 —

 今度のは、とてもシンプルだ。

 マリさんがお守りに、とドアにかけていた鈴。京丹後の神社で買ったものだった。そこにも羽衣伝説があるという。調べてみなくちゃ。そこは、神田紺屋町から、ちょうど真西の方角だな。

 京丹後市の羽衣伝説は、数ある羽衣伝説の中で最古のものだといわれている。710年代に記されている。磯砂(いさなご)山、当時は比治山と呼んだ山頂に、眞奈井(まない)という泉があり、そこに8人の天女が舞い降り水浴をした。老夫婦が目撃し、1人の羽衣を隠し、天に戻れなくなってしまった。老夫婦は言った。「私たちには子どもがいない。子どもになってくれないか」と。天女は「私ははぐれてしまいました。あなたがたの子どもになります。だから衣を返してください」。こうして約束を守り、子どもとなった。天女の作る酒が素晴らしく、病をも治した。あちこちから財宝を抱えた人たちが訪れ、老夫婦の家には大金が入り裕福になった。10年後、老夫婦は「お前は本当の子ではない。出て行け」と言い、天女は「あなた方の約束を守ったのに」と泣きながら家を出た。長年地上にいたために、もう天に戻ることができず、彷徨うのであった。

 この時に詠んだのが、

― 天の原 ふり放け見れば 霞立ち 家路まどひて 行方知らずも —

である。とても悲しい話だった。

 マリさんはなぜこの地を訪れたのだろう。なぜ、ここの神社の鈴をお守りにしているのだろう。「泉」で水浴していたから、なんて単純なことではないだろうな。

 もう一つの疑問は、日本における羽衣伝説の三大伝承地と言われる滋賀県長浜市余呉湖には触れていないことだった。僕はマリさんの顔、目を思い描きながら、彼女のこころに潜ろうとした。だが、できない……! 決定的な違和感がある。

 これまでマリさんには潜入したことがないということに、初めて気づいたのだった。逆に、僕のほうが見透かされているとさえ感じることがしばしばだった。

 全国に数多く言い伝えられている天女伝説を調べてみた。マリさんは今のところ、三保と丹後の2か所にしか訪れていない様子だ。この2つの違いは何か? あるいは共通点は何か?

 伝説のラストは……。三保が天に帰るという、いわゆる「昇天型」だった。丹後はどうだろう。もう一度、丹後の物語の結末について調べてみた。

 その後、老夫婦に追い出された天女は、里を離れて荒塩の村に着き村人に「老夫婦の心を思えば私の心は荒塩と何も変わりはありません」と村人に言った。丹波の里の哭木(なきき)の村に着いて槻(ツキ=ケヤキ)の木にもたれて泣いた。最後に、船木の里奈具の村に到り、「この村に着いて私の心は落ち着き平和になりました」と言い、住むようになった。 

 そうか! 三保は、衣を返してもらい天に帰る。丹後は、天に帰れず地上に留まる。その違いなのか……。余呉の伝承は、最終的には天に帰り、三保と同じ結末となる。これでマリさんが2つに絞った訳が解けた気がした。昇天型の代表として三保、非昇天型の代表として丹後を選んだのでは。地図では、どちらも神田紺屋町から見て左の方角、つまり内面を象徴している。それぞれの地で鈴を買ってきたという。そのうち、非昇天型の丹後の鈴を、お守りとしてドアノブにつけている。

 今すぐにでも、マリさんが考えていることを訊きたい。しかし「いずれわかると思うわ」と言われるだろうとの予測しか浮かばない。

 「私、あなたのこと応援しているわ」

 これがマリさんの口癖だった。そういえば、僕はマリさんの書いた記事を一度も見ていないな。フリーのライターだと言っていたが……。謙虚だから言わないのだろうと、勝手に想像していたが。

 この三差路で、背反するものに挟まれて、もうしばらくもがきながら生きていくことを覚悟した。


< 第四話 完 > 

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