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吉本隆明「固有時との対話」#1<おでん的批評文学>
誰そ彼時には誰でも物思いに耽りたくなるものだ。あれやこれやいろいろと考えてはみるけれど、いつも行きつく先にあるのは、わたしたちを包囲する昨日の向こう側と明日の向こう側についてのおはなし。赫々として陽が沈む。薄く引き伸ばされた斜光につれて伸びて行く影法師は、地平線から奥行きを奪って、すべてを複数の平面のなかへ埋め込む。
湿気を嫌う冬の風が、余分な情景を薙ぎ払ってあらわれる、機械としての憂き世のからくり。その奥底まで照らし出すのは、やっぱり鈍い角度からのスポット・ライト。強すぎる日射のしたには映らないような綻びや蹉跌も、拡張された影のなかでは生々しく拍動する。そこでようやく気が付くのだ、わたしのなかを過ぎてゆく欠如の在り処に。……誰そ彼、わたしはだあれ?
こころに空白を自覚したときはどうしよう。それを過去への追憶や未来への期待によって取り繕おうとするのはみんながやりがちのことだ。かれらの魂は衰弱している。そうして自分の歩んで来た時間と、これから歩んで行く時間とを限定しようとする。過去と未来と、二つの脚に支えられて、はじめて直立する現在を生きるわたしたちが、そのたった二本の脚をできるだけ頑丈なものにしようと考えて、すこしでも生を安定させようとする営為は健気だ。
しかし、あらゆるものは二つの相反するベクトルのうえに危なっかしく乗っかって生きているという真相からは、もちろんわたしたちも逃れられない。つまり、ほどよく安定しながらも絶えず未知を抱え込んだスリリングな人生を、わたしたちは根っこのところではかならず欲している。
平衡状態というのは、反対の二方向から引っ張られる力が等しいときに成り立つもので、全く力が加えられない状態のことを指すのではない。見かけに動きが無いことで二つの場面は共通しているが、実質はまったく違ったものだ。かくして辛うじて生まれる動的平衡とは、とてつもなく贅沢なシステムなんだろう。そして、そんな贅沢な基盤のうえで、世界は日夜、奇蹟のように生きている!
風はわたしたちの意識の継続をたすけようとして わたしたちの空洞のなかをみたした
人間二十余年も生きていれば、過去と名付けるに相応しい重力を、日常の足取りの一つ一つにも感覚するようになる。重力にまかせて落下することは易しい。わたしたちは意識的に摩擦を起こすことで、その落下速度を緩めることはできる。しかし落下そのものは決して止められない。なぜならそこへはたらく重力の加速度は、わたしたちが生まれる以前から既に備わっていたものだから。およそ9.8という数字は不動のもので、地球上に在るすべての形あるものが逃れ得ない宿命として抱きかかえている。
しかし量としては等しくても、質はまったく異なる状態は、あらゆる自然の原理や法則が万人に同じ重さをもって実感されないことからも理解できるだろう。はたらく重力が等しくても、身体に感じられる地球の重みはそれぞれ違っているように。だから宿命は各人固有のものである。宿命はそれぞれの主観のうちにしか現れない。あなたの宿命の貌は、あなたにのみ窺えるものだ。
その端正な貌を直視したいのなら、後ろめたい過去へと通ずる激烈な重力に抗う、毅然たる覚悟が必要だ。そこで生じる摩擦熱は、空気の抵抗として、たちまち乾燥し切った疾風へ化ける。風は、しょっぱい汗や涙のように過剰な情感を、仮借なく削ぎ落とす。棄ててしまえ。やさしい誰かに情けをもらうための余分な湿り気なんか。いまのわたしにはこんなにストイックな生き方しか赦されていない。けれども未来のどこかで、見晴るかす暗黒の空洞の先で、この忍耐を放棄できるのなら……。
そのときわたしは愛よりもむしろ寛容によつてわたし自らの睡りを赦すであらう
(続く)