見出し画像

吉本隆明「固有時との対話」#2<おでん的批評文学>

 人と人とは空間のなかで、いろいろな関係をつくり上げる。容易に言葉で表せるようなものはそう多くはないが、互いのあいだで共有している、と根拠もなしに確信している感情を基にして、わたしはあなたへ線を画す。線分は平面を引きつれて、人間という名の多面体を構成する。三次元の世界に生存を規定しようとする限り、わたしたちはひとりとして固有の存在になり得ない。いっさいの関係を疎外した単独者として生きることは許されない。関係性の面どうしがぶつかって生まれる境界線が、網目のように人間の街を埋めつくすさまが、真昼間の光束のなかに判然とする。

 だけど時間のなかにわたしは身を横たえる。時間は、わたしのこころを離れたところでわたしの位置を測っているものではない。わたしの時間はわたしのなかの固有の感覚以外のなにものでもない。時間のなかではみんなが平等に独りぼっちだ。孤独に悩む者はいない。孤独でない者が一人たりともいないのだから、これが悩みの種になるはずはない。孤立をひとに解らせようとするより、みんながそれぞれの時間のなかをただ一人でひたむきに歩みつづけていることを感得するべきだろう。孤立は敢えて口にするまでもない無味乾燥の公理であって、やわな感傷の種子にこそなれ、健やかな詩を育む豊潤な土壌とはならない!

とつぜんあらゆるものは意味をやめる あらゆるものは病んだ空の赤い雲のようにあきらかに自らを耻しめて浮動する

「固有時との対話」

 だから、自分の中に引き受けた寂寥からも、湿り気のせいでふやけた意味を剥ぎ取ってしまうべきだ。詩はあくまでも健康的に不健康を、不幸の形態としての不安をうたうものであるべきだ。暮れなずむ空の向こうに爽やかな星の降る夜を見越して、二十億光年の孤独のさきから飛来したくしゃみの咳きに勘付かなければいけない。その咳きが誰かのこころの大気圏へ突っ込めば、紅潮した彗星になって己れの生命の在り処を知らせてくれるだろう。そうして生まれた瞋りのため、真っ赤に頬を染めた魂に、寂寥の占める場処などない。

わたしたちは不幸をことさらに掻き立てるために
自らの睡りをさまさうとした
風はわたしたちのおこなひを知ってゐるだらう

「固有時との対話」

 心の建築のなかにぽっかり空いた空洞を埋めるものはなにか。メタファーとは便利なものである。言葉にならないものを言葉にするうえで、わたしたちはレトリックの助けを借りずにはいられない。それぞれに固有の、ある流れとしての感覚が、時間と名付けられているうちには、この世のどこを探しても見当たらない、抽象的で形式的な存在としての意味をしか手に入れられない。

 しかしあらゆるものは意味をやめた。かつて固有の時として、寂寥のど真ん中を過ぎていたものはいま、風になった。風は立ち止まらず、ただ進むのみ。さびしさに落ち込む時間など、わたしたちはとうに喪失した。わたしたちは石工となって、建築を生み出しつづけなければならない。ほかに路など一つもありはしない。ひとびとの入りたがらない寂かな路をゆくわたしたちは、決して孤独ではないのだから、黙々と歩を進めるのみだ!

わたしたちは<光と影とを購はう>と呼びながらこんな真昼間の路上をゆかう

「固有時との対話」

 すべてが影のなかへ押し込められてしまえばいい。そうなれば、わたしたちにはとても扱いかねるように巨大な建築も、二次元の世界へいっぺん入り込んでしまうと、単なる一つの影として、乾燥した路上で天日に干されるだけだから。光に当てられてすべては陰翳を放つ。影にはただ量の多寡だけがあって、質的な差異はどこにもない。そんな次元はなんと高貴なものだろう。量の次元において、わたしたちは等しくなれる。

(続く)

いいなと思ったら応援しよう!