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吉本隆明「固有時との対話」#4<おでん的批評文学>

しかもわたしはわたし自らの理由によつて存在しなければならない

「固有時との対話」

 神は生きる理由を与えてはくれない。しかし、わたしたちは影からあたたかな肉体を奪還し、重量と質とを回復した。人生の主題は外側から与えられるものではなく、己れの肉体の内側に、生命と溶け合って在るものだ。生命は、その空しさゆえに美しい。空いている場処を埋め立てるために、寂寥を持って来て飾り立てようとしてはいけない。空しさは絶対のものだ。存在と対になる不在ではなく、それ自体においてのみ成り立つ不在を、わたしたちは寛容によって慈しむべきだ。理由のない不条理な生をそのままに受け容れなければ、人生はカオティックな狂言に過ぎないだろう。

それゆえわたしが何処かへ還りたいと思ふことのうちには わたし自らを埋没したい願望が含まれてゐなければならなかつた

「固有時との対話」

 影法師となって過去は何処までも付き纏ってくる。そこから逃避するための手段とは、空洞のような、忘却に満ちた未来へ投身することだろうか。僅かにでも灯った希望の火を、しらみつぶしに吹き消してゆくことだろうか。その役目を、わたしたちの刹那的な意識を一つずつ結び付けて、アイデンティティをつくり上げる無色透明の風に負わせるべきだろうか。否。虎穴に入らずんば虎子を得ず。わたしたちは、過去に向かって生きなければならない。

 ぐんぐん自分の過ぎ去りし日々を飛び越して行ったさきに、わたしたちは自らの誕生する瞬間と遭遇する。そして母胎に生命が兆す以前、つまりわたしたちが存在しなかった時の感触を覚える。この不在は、存在する可能性を示唆しない絶対的なものだ。わたしが生まれる以前に、わたしが生まれ得る可能性などない。この不在は絶対的なものゆえに、孤独も寂寥も生みはしない。そこへ還りゆく願望が、わたしたちのなかに種子として埋まっているとすれば、それは同時にわたしたち自身を、形あるものの次元からその地下へ、埋め戻そうとする願望ではないか。

 しかし生活のなかに呼吸をつづける限り、未来は泡のように弾けて、絶えず過去へと変わりつづける。上手に踊らなければいけない。虚しさのうえに設えられた即席のダンス・フロアで、どれだけ嫌気が差していても、身体を揺らしつづけなければいけない。沸騰する虚しさをやさしく抱きしめながら。

 書き上げられた詩は、いつも過去からの客人として、唐突にわたしたちのこころの扉をノックする。文字に起こされた言の葉はかならず、時間の衣を纏っている。生まれた言葉を文字に変換し、読み手のもとへ届けるために、時間の経過を欠かすことはできない。そして、詩が書かれるときにも、また読まれるときにも、わたしたちはその時間的な経験を、他者と共有することはできない。詩の旨味を誰かと分かち合いながら、言の葉と戯れることはできない。そこでわたしたちは、みんなが等しく独りぼっちだ。

 あなたのこころの扉を開けるのはあなたの他の誰でもない。あなただけが扉の在り処を、その開き方を知っているのだから。詩は単独者による、単独者のための生存の与件、生きるよすがだ。寂しさや侘しさは現れない。寂寥は絶対的なものであるからこそ、まだ何者によっても占められていない、空洞のような未来の方向すら、すっかり満たされているように感じられる。過去から引きずられたわたしが時の彼方に埋没するとき、わたしの周囲は虚無のみによって満ちてゆく。何も無い状態のみが在る。何一つ無いからこそ、わたしたちは何一つ無いことに寂寥を覚えない。

いつかわたしのこころが物象に影響されなくなつた時 何もかも包摂したひとつの睡りに就き得るだらうと予感してゐた

「固有時との対話」

 この予感をあてにして生きられるのなら、わたしはすべてのものに絶対的な愛すら捧げられるだろう。睡りのように冴えた覚醒から解けたとき、わたしは筆を擱くことになるかもしれない。愛は沈黙のなかにのみ、その純潔を秘するものだから。

(了)

2024.12.12-2024.12.18

 

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