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吉本隆明「固有時との対話」#3<おでん的批評文学>

忘却といふものをみんなが過去の方向に考へてゐるやうにわたしはそれを未来のほうへ考へてゐた

「固有時との対話」

 暗い過去を忘れ去ることは難しい。しかし予感される暗鬱な未来を忘却することは容易い。未来は不確定なものであるから、わたしたちはそこへ責任を負う必要もなく、またそれに虐げられることもない。わたしたちを虐げるものは必ず過去の方向からやって来る。優しい未来と馴れ合って生きることは易しいが、わたしたちのなかを吹く風はそれを許しはしない。風は、その生まれた土地の濃厚なにおいを運んで来る。過去は絶えず、わたしたちをその過剰な色味で染め上げる。

 影もまた、未来に甘える生き方を許さない。光源から一定の距離を経て、光線が物体を射抜き、うしろがわに倒れる影は、時によって構成されたものである。なぜなら距離はそれと同時に時間もあらわすから。空間にあって隔てられているもののあいだには、それを隔てる時間がかならず塗り込められている。影は光の源との隔たりにまったく同期する。源のない川がないように、恒星のまわりを公転しない惑星がないように、わたしたちはいつも起源から逃れることができない。

 そこで敢えて、自らの影から訣れることは、あらゆる他者との関係からも離れることである。そのときには、他者とのあいだで長い時間をかけて織り出された自分自身と、訣別しなければならない。そのあとでどこへ向かうか。未来か? 未来なんていう甘っちょろい概念は空洞のなかへ打っちゃってしまったのではないか。さて、風はどこへ吹いてゆく? 西寄りの風が東へ吹くように、わたしたちはルーツの反対側へひたむきに歩んでゆきさえすればいいのだろうか。

<わたしは酸えた日差しのしたで ひとりのひとに遇はうとしてゐた>

「固有時との対話」

 遇うべきひとはいつも過去の方向からやって来る。不変のように見える過去も、じつはちょっとした力で姿形をまるっきり変えてしまうものだ。わたしたちに見える過去とは、純粋で客観的な実在ではなくて、主観のうちで、わたしたちの現在に絶えず重みを与えるものでしかない。言うなれば実体のない力として、現在の自己を決定するベクトルだ。わたしたちがある瞬間に為す行動の意味は、社会のなかに絡め取られた目には視えない無限の過去によって、あらかじめ定められている。意味とはすなわち過去だ。生きているあいだ、意味から逃走できないわたしたちの遇うべきひとは、知覚できない過去のすべてまで凌駕してしまうひとに違いない。

<そうして自らが費やした徒労の時間をいつまでも重たく感じたことのために 残されたわたしの生存はひとつの影にすぎなくなつたのか!>

「固有時との対話」

 生きることは孤独であり、充実した生とは、生存の根本的な条件たる孤独から、気を逸らせる方法の重積に過ぎない。虚無こそ人生の実質だ。さまざまな哀歓はその外殻であり、それらを一つ一つ剝ぎ取っていけば、のこるものは何も無い。だから、孤独とは皮相的な人生観である。生命の深層へ向けて掘りつづけた先で、わたしたちが目の当たりにするのは、荒涼とした共通としての虚無、みんなのなかにあって誰のなかにもない空洞だ。幾多の心の建築のなかへ、わたしたちは錘鉛を垂らし、過ぎてゆく風の、宿命の測度を視ている。ここではじめて、宿命を神と呼ぶことも許される。

(続く)

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