【劇評279】平成中村座。奇想天外で芝居のおもしろさがぎっしり詰まった宮藤官九郎の『唐茄子屋』!!!。勘九郎の愛嬌。獅童の喋り。七之助のルンバ(笑) 六枚。
面白い芝居を観客はよく知っている。
満員御礼となった平成中村座の第二部。宮藤官九郎作・演出『唐茄子屋』に注目が集まっていたが、実際の舞台は奇想天外にして、驚天動地。芝居の国のワンダーランドを旅している心地にさせる。
破天荒なおもしろさは無類で、歌舞伎の活力を信じることが出来た。
こうした活力は、どこから生まれるのだろう。
まず、勘九郎、七之助は、若年の頃から父勘三郎の元で、新作歌舞伎を仕立て挙げる楽しさを学んでいる。歌舞伎の外から来た演出家、劇作家とともに、芯となる役者が、細部を積み上げ、全体をまとめていく。このノウハウが、ふたりのなかに蓄積されているのだろう。
しかも、彼の周囲には、頼もしい先輩たちがいる。扇雀、彌十郎、片岡亀蔵、獅童ら手練れの役者が、おそらくは宮藤官九郎の破天荒な台本を、歌舞伎に落とし込んでいくアイデアが、出されているのは想像にかたくない。
最強のチームが、作・演出を支えているのだから、おもしろいはずだ。間違いないと、切符を求め、観客は走ったのだろうと思う。
さて、『唐茄子屋』には、不思議之若旦那と副題がついている。落語の『唐茄子屋政談』の筋立てに忠実だが、詰め込まれたギャグと見立てによって、まさしく令和四年の風が吹き込まれている。
若旦那の徳三郎(勘九郎)は、傾城桜坂(七之助)に入れあげた揚げ句、実家を勘当される。八百屋を営む叔父の八百八(荒川良々)にさとされ、どっさりと唐茄子を持った天秤棒を担いで商いに出る。
まず、吾妻橋の発端から、身投げをとめてもらいたくて、知り合いが通るのを待っていたという逆説が、客席を湧かせる。
若旦那を演じる勘九郎は、歌舞伎のつっころばしの型に忠実、頼りなく、しかも身勝手に役をつくる。一方、相手役の良々は、江戸の商人の意気を体現して、言葉を肚にためず速射砲のように放つ。
ふたりのしゃべりの締めくくりは、勘九郎の「アザス」。江戸の世界に現代語の投げ込むときのおもしろさで、芝居に杭を打ち込む。
次の場の見物は、何と言っても七之助の傾城の出だろう。
電飾で飾られた乗り物に乗って、舞台奥から押し出されてくるのだが、花魁道中の見立て。よくよくこの乗り物を見ると掃除機のルンバである。若い者は、傘をさしかけるだけではなく、舞台の常式に従って、籠にいれた紙の雪を降らす。ルンバと傾城を飾る傘と雪。時代を超えた要素が、ひとつの鍋に投げ込まれている。
これ以降は、この舞台を観る予定のかたは、観劇後に読んでほしい。
年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。