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【劇評308】藤間直三が、異界を意識した舞踊を見せた。

 コロナ禍もあって、日本舞踊の会がのきなみ中止に追い込まれていた。その忍従の時期を耐えた若手の『第三回 藤間直三の会』に出かけた。踊ることの喜びにあふれて、命懸けの覚悟が伝わってくる番組が並んだ。

 まずは、清元の『うかれ坊主』。六代目菊五郎の代表的な演目だが、この坊主には、僧侶というほどの格はない。街角で金をねだる願人坊主を、直三は、実に端正に踊る。所作に狂いがなく、日本舞踊としての『うかれ坊主』に徹していて、歌舞伎の『法界坊』のような悪党の色はない。
 妙な色気を抑えて、品よく踊る。嫌らしさを排した本格の踊りである。

 表象としての願人坊主が舞台に宙吊りになり、江戸の街角の設定でありながら、異空間に飛んだかのような思いさえした。

 私にとっての『うかれ坊主』は、なんといっても、富十郎が晩年、新橋演舞場で踊った舞台(2010年九月)が思い出深い。洒脱で愛嬌のある芸風が生きた『うかれ坊主』だった。今回の直三の舞台は、梅津貴昶の会(MOA美術館 2006年九月)で、菊之助が素踊りで踊ったときの端正さを引き継いでいるように思われた。

 さて、新作舞踊の『蠍と蛙』(作詞・振付 藤間直三、杵屋史弥 作曲)は、狂言仕立てだが、諷刺と諧謔の舞台となった。川のほとりで、向こう岸に渡りたいと願う蠍が、通りかかった蛙に背にのせてほしいと頼む。刺されては、ともに川に沈むと分かっていながら、蠍は蛙の背を刺してしまう。

 一見、動物世界の残酷を描いているかに見えるが、男女の性の営みが、理屈ではわりきれない欲望によって動かされていると語っている。

 もっとも、現実の舞台は、こうした解読を振り払うように、快調にすすむ。ここで直三は、敵役を強く意識して、化粧や衣装も考え抜いている。踊りも切れ味よく、蠍の敏捷さを描き出している。

 相手役となる花柳貴伊那の蛙が、花道の出から客席を湧かせる。性を超越した魅力のある舞踊家なので、さきほどの隠れた趣向を、嫌味のないものとしている。
ツレて踊る幕切れは、決して相手に負けたくない舞踊家としてのふたりの意地が拮抗する。これもまた、男と女の矜恃を賭けた闘いとも読める。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。