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【劇評296】宮沢りえ、小日向文世の『アンナ・カレーリナ』。過剰な演出が、かえって空虚な舞台を生み出している。

 古典の大胆な新解釈によって、埃を被っていた戯曲が、現在を撃つ舞台に生まれかわるのを観るのは楽しい。
 ただし、それがロシアの大河小説を原作とした場合は、内実をともなった舞台にしあげるのは、きわめてむずかしい。

 フィリップ・ブリーン上演台本・演出の『アンナ・カレーリナ』(レフ・トルストイ原作 木内宏昌翻訳)は、過剰なまでの演出が、かえって登場人物たちの空疎な内面をあぶりだした。

 もとより、それが演出の狙いなのだと言われればそれまでである。
 けれども、圧倒的な美貌と舞台女優としての貫禄をそなえた宮沢りえのアンナ・カレーリナ。そして、長いキャリアのなかでも代表作ともいうべき演技を見せる小日向文世のカレーニン。このふたりの突出した魅力を味わう舞台となった。

 まず、台本作成が困難だったろうと思う。劇化する場合は、これほどの長編を全体のダイジェストとするのは、風車に鎗で立ち向かうに等しい。結果として、場数が多くなり、筋を追っているのでは、成功はおぼつかない。新たな演出をほどこす意味のある部分を切り出すのが常道だろうと思う。

 アンナやヴロンスキー(渡邊圭祐)に代表される虚栄の市に生きる貴族階級たちは、方向性を見失っている。劇が進むにつれて、リヨーヴィン(浅香航大)と、その妻となったキティ(土居志央梨)大地と星空に未来を見つけようとする。スティーヴァ(梶原善)とドリー(大空ゆうひ)は、妥協的な生から抜け出すことができない。
 こうした三組の対比はわかるが、台詞に生彩が見いだしにくい。貴族社会の頽廃の中にも、知性の底光り、機知のひらめきがあるはずなのに、おおよそ浅はかな生を送っている人々に見えてしまっている。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。