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【劇評189】「生まれも育ちも、日本じゃ」。文学座『五十四の瞳』がともに生きる意味を問う。

 人間はどれほど辛い命運に襲われようとも、必死で生きていこうとする。その判断がときにあとから振り返って「正しく」はなくとも。
 『五十四の瞳』(鄭義信作 松本祐子演出)その迷いとのちの後悔を描いて、すぐれている。

 在日コリアンの一家を描いたミン・ジン・リーの小説『パチンコ』(文藝春秋 二○二○年)を読み終わった翌日、この劇を観た。

 瀬戸内海に浮かぶ小さな西島は、採掘業で成り立っている。時代は、昭和二十三年。終戦直後の混乱のなかで、西島唯一の小学校、西島朝鮮初級学校では、朝鮮人と日本人が机を並べていた。
 柳仁哲ホン・チャンス(神野崇)ひとりで教えるこの学校に、新任の教師康春花カン・チュンファ(松岡依都美)が赴任してきたところから物語がはじまる。

 この学校を卒業して中学生となった洪元沫ホン・チャンス(川合耀祐)、呉萬石オー・マンソク(杉宮匡紀)、日本人の吉田良平(越塚学)は、大の親友(チング)だ。同じ年代の金君子キム・クムジャ(頼経明子)は、この三人のチングのなかには入り込めない。

 元沫の父洪昌沫(たかお鷹)は、採掘業を仕切っている。良平の母ミツコ(山本道子)は、早くに夫を亡くし女でひとつで育て上げた。

 世代の異なる彼らが、大韓民国と朝鮮民主主義共和国の成立。朝鮮戦争。サンフランシスコ平和条約。北朝鮮への帰国船の出航。日韓基本条約の締結など,昭和四三年の秋までの日々をいかに過ごしていくか。彼らは、やがて別れ、不当な差別の中で、自分の道を見つけようと格闘していく過程が、哀惜とともに描かれている。

 この舞台がすぐれているのは、まず、朝鮮人と日本人がひとつのコミュニティーのなかで生きていく設定にある。
 この場では、直接的な差別は語られないが、そのだれもが在日コリアンをめぐる差別が存在し、有形無形に圧力を感じて苦吟している。安易な慰めを描き出すことを避け、チングが揃ってデモにいってから、歯車が狂い出す展開がドラマを生む。

 松本の演出は、無謀で粗暴な男たちに気持ちを寄せている。やむにやまれぬ衝動が突き上げてくる青春時代を愛おしいものとして、暴力を含めリアルに写そうとしている。
 
 また、チングに入り込めない金の哀しみ、女親ひとりで子を育てているミツコの意地もまた、避けられない現実として見詰めている。ここで信じられているのは、国家の大義でもなければ、教育の正義でもない。ひたむきに人が生きることの正しさなのであった。

 鄭義信の戯曲と松本の演出は、ある価値観を押しつけたりしない。
 朝鮮人と日本人、女性と男性、老人と子供、あらゆる隔たりをこの時代にある存在し、残念ながら今もあるものとして描いている。
 けれども、今もなくならぬ隔たりは隔離ではない。ともに生きる可能性を信じている。
 また、チングがばらばらになろうとも、五十四の瞳、二十七人の生徒がいて、やがて四の瞳、二人の生徒になっていく地域の衰亡にも焦点が合っている。
 
 痛烈な痛みとともに、交わされる台詞がある。

萬石 マッカーサーが平壌に核爆弾落とすっちゅうて……あのおっさん、狂うとる……そやから、北から大勢逃げてきて、一家離散……家族、ばらばらや。おれら、民族、ばらばらや…大韓民国、無理矢理作ったんも、アメリカや。アメリカのせいで、おれらの国は引き裂かれたんや。おれら、民族が引き裂かれたんや。民族の明日が引き裂かれたんや……それ、黙って、見とるわけいかん、見過ごすわけいかん。
昌沫 阿呆、阿呆! 民族の明日なんか、知るか! どうでもえぇわ、ど阿呆! おれらは、日本におるねんやぞ。生まれも育ちも、日本じゃ。なにが、祖国じゃ。おれらのけつの穴には、日本製って書いてあらぁ。
君子 うちは……書いていない、思う……。
(『悲劇喜劇』 二○二○年十一月号 早川書房

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。