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いつの日かまた、じぶんの戯曲が舞台にのるときがくるのだろうか。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十八回)

 ある日、慶應大学で小山内薫は万太郎に声をかけた。

「『暮れがた』をやらしてもらうかもしれないぜ」
 万太郎は本気にせず、
「どうぞよろしく」
といい加減な返事を返した。
 
 それからしばらくすると、連絡があり、田原町の生家の二階で、女形の市川貞次郎が連れだって現れた主事の川村を迎えた。
 世間話のあと、川村はスケッチブックを取りだし、「舞台をこうしようと思うのだが」と、大道具の見取り図まで書きはじめたのである。

 明治四十五年三月に、小山内薫は、新派の俳優藤澤淺二郎が私財を投じてはじめた土曜劇場の顧問となっている。
  東京俳優学校の出身者によってつくられた土曜劇場は、俳優学校の閉鎖後、主事であった川村花菱がつくった有楽座の専属劇団だった。

 その名の通り、毎土曜日の昼、有楽座をかりて公演をうった。当時、演出家ということばはまだなく、舞台監督といったが、小山内は、大正元年三月ヴィレック『一瞬間の心持』につづいて、四月には、万太郎の戯曲『暮れがた』をとりあげ、
「後年、がら明きの客席を見ると、よく人が土曜劇場のようだと言い、またこの座の或る役者が或る新劇の長老に、きょうはあの滑稽な台辞(せりふ)で笑いましたよと話したというほどの客足なり演技力なりではあった」(久保栄『小山内薫』)
といわれ、土曜劇場のレベルは高いとはいえなかった。

 小山内薫は、市川左団次と自由劇場に取り組むかたわら、素人に毛のはえたような役者とも舞台を立ち上げたのである。

『暮れがた』が上演された四月の土曜日。
 観客の入りは、四分、あるいは五分にすぎなかった。
「だゞ、幕のあく前後に聞かせる祭りの囃子がいつもの幕あきの鳴物に堕した不満と、外の道具のことにして金屏風がばか(、、)に立派だつたこと」(万太郎「土曜劇場で『暮れがた』をやったとき」)
を覚えているばかりだと万太郎は思い出している。

 自作の上演が終わり、幕になった。有楽座のロビーにでると、おとなしい観客は、誰も芝居の感想を話すものはなく、黙々として煙草をふかしたり、眼をふせて廊下をいったりきたりするばかりだった。

 万太郎は思う。
 いつの日かまた、じぶんの戯曲が舞台にのるときがくるのだろうか。
 弟子の思いとはうらはらに、小山内は、『暮れがた』の上演について、まとまった文章を残していない。

 『暮れがた』は、与謝野馨が主宰する「スバル」の編集にあたっていた吉井勇から、馨の渡仏送別会の席上、明治四十五年正月号の戯曲付録のために依頼された戯曲である。

 万太郎は、子供のころから経験してきた祭礼の夕方のとめどない寂寥を芝居にしようとした。
 「年少二十三歳の、はじめて"遊戯"といふ戯曲を書いたゞけの作者は、"和泉屋染物店"の作者によつて、人物の性格、運命、機会等を劇的に発展させるよりも、むしろ科(しぐさ)、表情、情調等によつてそれの暗示せらるべきだといふ方法を提示され、心から"なるほど"と感じ入つたのである。」(万太郎『好學社版『久保田万太郎全集』後記』とある。

 『和泉屋染物店』は、明治四十四年「スバル」三月号に発表された戯曲である。この半年ほど前に書かれた『和泉屋染物店』に、影響を受けたとはっきり書いている。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。