【劇評170】 純粋な言葉が細い鋼のように。野田秀樹作・演出『赤鬼』Dチームを観て。
まっすぐに言葉を伝える。
簡単に思えるが、実はそうではない。
人 間は、正直に、じぶんの思いを言葉にのせるとは限らない。内心を隠すために、言葉が費やされることもある。
Dチームによって上演された『赤鬼』(野田秀樹作・演出 東京芸術劇場シアターイースト)を観て、そんなことを考えた。それほど、今回の上演は、戯曲の言葉を交じりけなしに伝える。愚直なまでに演劇の根本を大切にしていたからである。
私自身、これまでも、さまざまな論点からこの劇について語ってきた。野田秀樹の特質は、フィジカルシアターとみせながら、詩的な言葉がぎっしりと詰まった文学でもある。
フィジカルな面からいえば、村人たちがシャンプーをしたり、肩もみをしたり、どんな危険があっても、日常を保たなければならない現実をおもしろく観た。
こうしたさりげない場面に、まさしく新型コロナウィルスとの共生を強いられた私たちの現実が読み取れる。しかし、果てしなく繰り広げられる身体言語の氾濫、その遊びを統べるかのように、純粋な言葉が細い鋼のように張り詰めていたのだった。
思い出深い場面がある。
あの女と赤鬼とトンビが、ひとつひとつ言葉をおぼえていく。
まずは、お互いの名前を発見し、ついには「海の向こう」という理想郷を伝えようと願いはじめる。どのヴァージョンであろうとも、再演のたびに、この発見の件りに私は心を動かしてきた。
今回は、言葉が意味をまとうときの困難とパントマイムによる身体性が、実に巧みにからみあっていた。
人間はどんな絶望の淵にあっても、言葉と身体をくりだして、かすかな希望を見つけ出そうとする。次第に私たちの思いは、力を取り戻して、蘇っていく。青ざめていた顔に、血がかよっていく。そんな不思議を観たように思った。
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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。