【劇評167】空白を超えて、衝撃的で、極めて思索的な野田秀樹作・演出『赤鬼』の初日を観た。
厳戒態勢のなか『赤鬼』を観た。
舞台を取り巻く状況
東京芸術劇場には、四ヶ月ぶりに訪れたが、私は自分自身の車を運転して行った。地下三階の駐車場に止めて、エレベーターで地下一階に上がる。
開演三十分前に到着したが、シアターイーストを取り囲むようにロビーには観客が集まっている。
客席は自由席で、当日渡されたチケットの整理番号が呼ばれ、順番に入る。案内の方ばかりではなく、スタッフ全員がマスクの上にフェイスシールドをかぶっている。切符の半券は、観客が自分自身で切るように指示があり、さらにアルコール消毒のボトルが待っていた。
劇場に入ると、方形の舞台の四方を観客席が囲んでいる。舞台と客席のあいだには、透明で巨大な幕が垂れ下がっている。言葉が適切かどうかはわからないが、まるで水族館に入り、水槽を観ているような心地さえした。
客席も市松模様に配置されており、隣席とは距離があり、直接前の席はない。ロビーの椅子も離れて置かれていて、隣接した通路への扉も全開になっている。
考えられるあらゆる手段が講じられているのがよくわかった。東京芸術劇場のスタッフの皆さんの努力に感謝する。
野田秀樹作・演出の『赤鬼』には、さまざまなヴァージョンがある。
一九九六年にパルコ・スペースパート3で初演されたこの作品は、九八年にはバンコク、二○○三年にはロンドン、○五年にはソウルで上演された。○四年には、シアターコクーンで、ロンドン版、タイ版、日本版の連続上演も行われた。
それぞれに特徴があり、『異質であることの意味』(『野田秀樹の演劇』河出書房新社 二○一四年所収)に詳しく書いた。
タイ版に近い冒頭の演出
今回の上演は、あの女、トンビ、ミズカネ、赤鬼の四人とともに、十四人の村人によって演じられる。冒頭、鍋やバケツホースやザル、竹竿などの日常の品を使って、祝祭的な光景からはじまる。
一見するとタイ版の演出に近いのではないかと思われた。
ところが、劇が進むうちに、私がこれまで観てきた『赤鬼』とは、まったく違う作品になっていると気がついた。
私がこれまで、この作品を肌の色や国境や文化の違いによって、人間社会には、差別が否応もなく起こる。その真実を摘出した劇だと思ってきた。
さらにいえば、同一の人種、同じ村のなかにも差別がある。あの女とトンビは、赤鬼が登場する前から、村人から隔離されて生きてきたのだ。
勿論、周到に書かれた戯曲は、単に「差別が悪い」とのマニュフェストに終わるわけではない。
危機的な状況における人肉食の問題を内蔵させ、人と鬼の境界そのものを告発する。多数派と少数派の永遠に続く対立と抗争を露わにしてきた。
ところが、新型コロナウイルスの脅威が、私たちの日常を大きく狂わせた状況下では、この上演そのものがはらんでいる問題にまで射程が届いた。
ソシアルディスタンスは、演劇と鋭く対立する。
政治家やマスメディアが頻繁に口にするソシアルディスタンスという概念は、舞台芸術と鋭く対立する。
観客と俳優、俳優と俳優の距離の問題をあからさまにする。観客と俳優をいかに隔てる対策が行われても、俳優と俳優の問題は残る。「ソシアルディスタンス」を徹底すれば、俳優がひとりだけ登場する『審判』のような作品しか上演できないことになる。
年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。