【劇評288】東京キャラバンが帰ってきた。野田秀樹が仕掛けたケレンが炸裂する芸能者の祭典。
2015年10月、「東京キャラバン」の公開ワークショップを、駒沢公園で観てから、ずいぶん時が過ぎた。七年といえば、結構な月日で、この間に起きた出来事を思い出すたびに、私たちは遠くまで来たのだと思う。
東京オリンピックは、悪夢のような思い出に成り果てた。コロナウィルスの脅威は、人類を相互不信のただなかに陥れた。ウクライナ侵攻は、不条理の意味を改めて考えさせられた。
今回、野田秀樹が企てた「東京キャラバンthe2nd」は、初演の面影を残しつつも、より肩の力が抜けた文化サーカスとなった。
その試みは、ジャンルの違う芸能を同じ舞台にあげるだけではなかった。オムニバス風に、はいっ、次ぎ、と紹介するだけならば、だれでもできる。
琉球舞踊とアイヌ古式舞踊が、あたかも、もとより通底する精神があるかのように、踊りと音楽と人々を交錯させる。
冒頭と末尾には、浅草ジンタというバンドが、昭和を思い出される音楽を楽しく奏で、出演者全員でパレードを行う。東京の下町の路地裏に、前田敦子や静岡県立横須賀高校郷土芸能部の部員たちが紛れ込んだかのようだ。
大きな枠組みとしては、前田敦子をナレーターに、”東京キャラバン”アンサンブルによって構成される物語がある。
ピーター・パンと不思議の国のアリスを下敷きに、少年や少女がずっとそのままではいられない現実を静かに語る。もうひとつは、野田が『半神』でも展開した螺旋階段のモチーフが繰り返し語られる。どこまでも昇っていたかに思える階段が、いつのひか降っている。けれど、螺旋階段には果てしがなく、私たちはどこまで降りていくのか知る術がない。私はそんな時代への不安をこの物語から読み取った。
前田敦子は淡々とけれど、ひたむきに、この伝えがたい物語を観客に訴えて好感が持てる。
年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。