【劇評161】白鸚、吉右衛門。藝の到達点とは。☆★★★★
まさか「桜を見る会」の諷刺なのか?
見どころにあふれるミドリの公演で、ゆったりと観た。
朝いちばんの朝幕は、『醍醐の花見』(中内蝶二作 今井豊茂台本)。幕外のやりとりが終わると幕を振り落とす。
季節は違えど、桜の花は、歌舞伎の美の原点にある。
梅玉の秀吉、福助の淀君、勘九郞の三成、七之助の北の方、芝翫の智仁親王、魁春の北政所が、盛大に花見を愉しむおおらかなな一幕。昨今世情を騒がせている権力者の「桜をみる会」を、まさか下敷きにはしていないだろうと思うが、諷刺ならばまた、見方が変わってくる。中村の姓を名乗る役者が集まって、新年を寿ぐ。
凍える悲しみ
一転して、雪のなかに凍えるような悲しみがこもる『奥州安達原 袖萩祭文』。
なんといっても雀右衛門の袖萩が、三味線を弾きながら、こころのうちを語る件りが切々と胸に迫る。
父直方(東蔵)とその妻浜夕(笑三郎)とのやりとりも緊迫感がある。東蔵は、娘に思いがけずにあえた嬉しさをひたすらに隠す思い入れがすぐれている。芝翫の貞任、勘九郎の宗任と立役が大きく、単に勘当された親子の話に終わらない。勘九郎の男っぷりがよく、懐剣を持って迫る件りに生彩がある。葵太夫の浄瑠璃、寿治郎の三味線。
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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。