【劇評190】仁左衛門の『毛谷村』の粋。踊り二題は、梅枝の自在。鷹之資、千之助の懸命。
広大なロビーを一階と二階に持つ幸福。トイレために行列もできにくい。幕間取れる。三密もおのずと避けられる。国費を投入した権威主義的な建物が、こんなときに役に立つものだと妙なところで感心した。
今月の第一部、第二部は、時間の制約はあるものの歌舞伎を観る醍醐味がある。
この危機に際して、国立劇場の制作はじめスタッフが、歌舞伎の未来を担保しようと懸命に智慧を絞っているのがわかってうれしくなった。
さて、第二部は、仁左衛門の『毛谷村』である。
騙されやすい剣の達人が、不思議な老婆の訪問を受けたかと思うと、虚無僧となった女剣士が許嫁だと名乗る。
世の中はすべて金。ずる賢く立ち回ったが勝ちという昨今の日本人をいさめるかのようなファンタジーとして観た。
今回は、「杉坂墓所の場」がつく。
まず、仁左衛門の花道からの出がいい。ちょこちょこ歩きで、身体の力が抜けており、毛谷村六助のおおらかな性格がにじみでる。
対する彌十郎の微塵弾正は、この場では、あくまでへりくだった様子をくずさない。次の場で変わり目をみせるために肚を割らない。
六助は、人がいいだけではなく、強いところを山賊相手の立廻りで見せる。
続いて「六助住家の場」。六助が偶然、預かることになった子供弥三松(小川大晴)をあやすところが見どころ。仁左衛門の六助は、子役相手にやりすぎることなく、淡々とこの件りを運んでいく。
東蔵は、宿を求める旅姿の老婆として出るが、ただものではない空気をまとっている。老練の役者ならではのたたずまいにいつも関心させられる。
続いて、孝太郎のお園が出るが、女武道の強さを打ち出して笑いを取るよりは、親が決めた許嫁と出会った途端、一目惚れをした様子が伝わってくる。近年、孝太郎は独自の解釈を持つ女形として進境著しい。
年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。