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長谷部浩のノート お芝居と劇評とその周辺

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2023年4月の記事一覧

【追悼】無類の役者、四代目左團次のユーモアについて。

 代表作ではなく、口上から追悼を書き始めることをお許しいただきたい。  襲名や追善の口上で、左團次さんが参加されると聞くやいなや、いったいどんな暴露話やブラックジョークの矢が放たれるか、楽しみでならなかった。  なかでも、抱腹絶倒というよりは、一瞬凍るような気にさせるのが、左團次さんの真骨頂だった。八十助さんが十代目三津五郎襲名の席、私が聞いたのは、「金も女もわしゃいらぬ。せめても少し背がほしい」であった。  三津五郎さんは、背が低かったけれども、『勧進帳』の弁慶にも定評

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【劇評299】舞台は、役者の人間性を競う戦場なのか。仁左衛門、玉三郎の『与話情浮名横櫛』。松緑、左近の『連獅子』

 私が好きだった歌舞伎は、いつまで観られるのだろう。そんな不安が取り憑いて離れない。けれども、舞台は、役者の人間性を競う戦場だと考えるなら、歌舞伎に対する造詣など、よそに置いて、自分の勘で、役者の人間を観ればいい。最後はそれだけかもしれない。  鳳凰会四月大歌舞伎は、昼の部は猿之助を中心に若手花形を鍛える『新・陰陽師』。企画を聞いたときに、歌舞伎に対して中期的な目標を持っているのは、猿之助なのだなあと実感したのを覚えている。  さて、夜の部は、仁左衛門、玉三郎の至芸を楽し

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【劇評298】幼い子を亡くす。いつの世も変わらぬ痛みを掘り下げた『ラビット・ホール』。

 幼い子供を事故で亡くした夫婦は、日常を取り戻すことはできるのか。  『ラビット・ホール』(デヴィッド・リンゼイ=アベアー作、小田島創志訳、藤田俊太郎演出)は、このおよそ不可能な問いに対して、微かではあるけれども、希望を語った。それは、この世界には出口がない、ただ断崖だけが待っている。そんな未来への絶望に捉えられている私たちへの力強い励ましとなった。  ニューヨーク郊外にある住宅街。瀟洒な家に住むベッカ(宮澤エマ)と妹のイジー(土井ケイト)の奇妙な会話からこの舞台は始まる

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つかこうへい追悼文 2010年7月10日歿

 一九七四年に『熱海殺人事件』で岸田戯曲賞を受け、時代の寵児となったつかこうへいは、笑いを武器に日本の演劇界を席巻した。 七六年、VAN99ホールでつか作・演出の『ストリッパー物語・火の鳥伝説』を、大学の友人とふたりで観たときの衝撃が忘れられない。そこには私たちの世代が、どうしても観たかった舞台があった。逆説的な言葉と派手な演出に酔った。夜の街を、思い出せる限りのせりふを繰り返しながらいつまでも歩いた。私にとって、これほどの演劇的な事件はかつてなく、また二度と訪れることはな

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十代目坂東三津五郎追悼文 2015年2月21日歿

 二月二十一日の夕方、新聞社から電話があり訃報を知ってから、しばらく呆然として何も手がつかなかった。こんな日が来るとは思わなかった。翌日になって青山のご自宅に弔問に伺い、最後のお別れをした。稽古場の舞台に横たわった三津五郎さんは、穏やかな顔で眠っているようだった。これからは、空の向こうで、好きな酒も煙草も存分に楽しめますね。話しかけたら、胸が詰まった。  三津五郎さんから話を伺い、聞書きの本を二冊、岩波書店から出版したことがある。『坂東三津五郎 歌舞伎の愉しみ』(平成二十年

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中村勘三郎追悼文 2012年12月5日歿

 歌舞伎を愛してやまない人だった。歌舞伎が演劇の中心にあることを、信じ続けた人だった。その願いを生涯を賭けて全力疾走で実現したにもかかわらず、急に病んで、そして逝った。  五代目中村勘九郎は、天才的な子役として出発した。昭和四十四年、十三歳のとき父十七代目勘三郞と踊った『連獅子』で圧倒的な存在感を見せ頭角を現した。二十代前半には『船弁慶』『春興鏡獅子』と、祖父六代目尾上菊五郎ゆかりの演目を早くも踊っている。六代目と初代中村吉右衛門の血をともに引いていることが、彼の誇りだった

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蜷川幸雄追悼文 2016年5月12日歿

 世界の巨匠という名にふさわしい偉大な演出家が亡くなった。ロンドンをはじめとしてニューヨークやパリでも演出家として観客をひきつける力を持つ唯一無二の存在だった。  大劇場から小劇場まで活躍の幅は広かった。近年、拠点としたのは、芸術監督を務める彩の国さいたま芸術劇場やBunkamuraシアターコクーンだった。客席700程の中劇場で、シェイクスピアや唐十郎ら日本の劇作家の作品を次々と手がけた。質だけではなく数をもこなす精力的な活動によって、息をひきとるまで、世界の現代演劇を牽引

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十二代目市川團十郎 追悼文 2013年2月3日歿

 巨星墜つという言葉がふさわしい。歌舞伎界を代表する役者が、まさしく円熟期に失われたことは重大な損失で、目の前が暗くなる。  十二代目市川團十郎は、十一代目の実子で、昭和二十一年に生まれた。美貌で知られた父の芸を受け継ぐ間もなく、昭和四十年に高校生で父を失っている。菊之助(現・七代目菊五郞)故・辰之助(三代目松緑を追贈)とともに三之助と呼ばれたが、若年にして後ろ盾がいなくなった当時、新之助の苦労は並大抵ではなかったろうと思う。  昭和四十四年に、十一代目市川海老蔵を『助六

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東京がもっとも速かった頃。坂本龍一をめぐる記憶、いくつか。

 憧れの人が逝った。  東京が世界の都市の中でもっとも速い。そう信じられた時代の寵児だった。西麻布や広尾のあたりにいると、ブーンと東京が空を駆け抜ける音がした。  雑誌の仕事をしていたので、お目にかかる機会に恵まれた。数は少ないけれども、インタビューを三回ほどお願いした。もっとも印象に残っているのは、YMOが散会してしばらくして、一九八九年にリリースされた『Beauty』がリリースされたときの取材だった。  これまでYMOでは、高橋幸宏さんが担当していたヴォーカルに、本格的