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久保田万太郎、あるいは悪漢の涙

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今となっては、俳人としての名が高いけれど、久保田万太郎は、演劇評論家としてそのキャリアをはじめて、小説家、劇作家、演出家として昭和の演劇界に君臨する存在になりました。通して読むと…
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#水上瀧太郎

店をたたんだ父の一家は、子供のなかで唯一の成功者であるじぶんを頼ってくる。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第四十二回)

 東京中央放送局の矢部謙次郎が、万太郎に文藝課長に就任しないかという口説き文句は、水上瀧太郎らに社会的にも肩をならべたい万太郎の隠された願望を解き放ったのである。 芥川龍之介の死  対談の発言を読み解くと、水上との関係と私生活の乱れが浮かび上がるが、作家生命を失うかもしれないこの決断は、後年の対談で苦笑まじりに語られるほど単純なものではなかった。  「放送局に入ってから」は、昭和六年十月、東京日日新聞に連載された随筆である。東京放送局に入った二ヶ月後に書かれたこの文章は

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賢兄は、自ら飼犬の態度に学ぶと繰り返す愚弟の屈折を知らない。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第四十一回)

 小説「春泥」に描かれた新派のみならず、演劇の世界の人々との交友を万太郎は深めていく。  まっとうな社会に属する水上にとっては、深酒に溺れ、芝居の話に熱中する彼らは、無頼の徒と映ったかもしれない。  ドウガルの讃美者はすこぶる多く、久保田万太郎君もその一人で、あたしはドウガルの態度を學ぶよと、又かと思ふ程繰返す。  但し飼主の側から見ると、この人とこの犬では、まるつきり品行が違ふ。久保田さんは、あたしは酒は嫌ひですと、いはなくてもいゝことをいひ、又實際私のやうに晩酌を楽む風

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イヤなやつでいい小説を書くやつと、立派な人間でへたな小説を書くやつと、君はどっちを取る? (久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第四十回)

 今井達夫は、その貴重な評伝『水上瀧太郎』(フジ出版社 昭和五十九年)のなかで、昭和八年ころ、水上邸で行われた水曜会の席で、不意に放たれた万太郎の発言を記憶に刻んでいる。 「ねえ、今井君、イヤなやつでいい小説を書くやつと、立派な人間でへたな小説を書くやつと、君はどっちを取る?」  人格的には、とてもかなわないと思いつつも、作家としては私の方が上だと万太郎は自負していた。  水上の父は明治生命の創業者、澤木四方吉は新潟の素封家の生まれ、小泉信三の父も学者であった。  明治

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収穫期を迎えた創作活動は、この激務によってさまたげられる。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第三十九回)

7 芥川龍之介  昭和六年八月、四一歳の万太郎は、東京中央放送局(NHKの前身)文藝課長に就任。収穫期を迎えた創作活動は、この激務によってさまたげられることになる。    小説家高見順との「対談現代文壇史」(中央公論社 昭和三二年)で、東京中央放送局に入った事情をみずから語っている。  初出は、昭和三十一年七月号の「文藝」。六十六歳となった万太郎は、十八歳年下の高見を相手にざっくばらんな調子で過去を回想する。  ええ、そのうち、嘱託、クビになったんです。  そうしたら、改

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ほんとにわたしは、庭に立つて、退屈しなかつたのだ。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第三十五回)

 水上瀧太郎の援護によって、小説「末枯」が文壇にふたたび入れられ、長いスランプから抜け出した万太郎は、この渡辺町の家で小説家としての収穫期を迎える。  昭和十八年、「婦人公論」に発表された随筆『無言』には、新しい私を発見した驚きが生き生きと回想されている。 「が、さうはいつても、その渡辺町の二年あまりのあけくれは、わたしの一生でのいい生活だった。うそのない生活だつた。美しい生活だつた。  わたしはわたしの一日の大半を、二階のその机のまへを退かなかつた。それほどわたしは、仕

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