マガジンのカバー画像

久保田万太郎、あるいは悪漢の涙

54
今となっては、俳人としての名が高いけれど、久保田万太郎は、演劇評論家としてそのキャリアをはじめて、小説家、劇作家、演出家として昭和の演劇界に君臨する存在になりました。通して読むと…
マガジンのディスカウントを行います。1280円→880円です。『久保田万太郎の現代』(平凡社)の刊…
¥880
運営しているクリエイター

#水上滝太郎

殆ど意志を所有しないと云ってもいい位、気持に執する人である。はっきり云えばむら気なのだ。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第三十回)

 美術史家の勝本清一郎は、明治三十二年に日本橋南茅場町で生まれ、大正十四年から昭和二年まで「三田文学」の編集にたずさわり、万太郎と水上を身近に観察できる場所にいた。  勝本は『座談会大正文学史』(昭和四十年 岩波書店)のなかで、酒席での万太郎と水上を比較し、(万太郎は)「長い間の印象として僕は、躁鬱病気質の人と感じていました。水上さんの方は、これくらい酒ののみっぷりの立派な西洋式の人はなかった。」と語る。  しかし、座談の終わり近くに勝本は、水上について語り、「人間として

¥100

妹を失つた。祖母にわかれた。恋愛に失敗した。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第二十九回)

 万太郎は『かれは』(昭和三年一月、『新潮』)のなかで、「暗黒の時代」について、次のように書き記している。 「二十六の春から三十の秋までかれは暗黒(旧字)時代をすごした。かれはその五年のあひだにあつて妹を失つた。祖母にわかれた。恋愛に失敗した。不測の病をえて死にはぐつた。火事にあつてまるやけになつた。」  大正七年二月、三筋町の家を焼け出されて禄郎を頼ったことは、既に鏡花の章でふれた。  翌、三月、当時、明治生命大阪支店に勤務していた水上瀧太郎を訪ねている。瀧太郎の小説『

¥100

凡そ人間には意志によって生きる人と、感情に頼って生きる人とがある。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第二十八回)

第七章 水上瀧太郎  ひとは親友をいかにして選ぶのだろうか。  その選び方によって、その人間の本来持っている性行があらわになる。  耳にざわりのいいことばかりいってくれる取り巻きは、実はその人物をひどく退屈させたりもする。  苦言や非難をあびせかけてくる友人をむしろ好む人物もいる。彼らは友人の真摯な批判を、じぶんに対する愛情の深さとして理解するのである。  至極大ざっぱな言葉使いではあるが、若し、凡そ人間には意志によって生きる人と、感情に頼って生きる人とがあると云えるなら

¥100