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久保田万太郎、あるいは悪漢の涙

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今となっては、俳人としての名が高いけれど、久保田万太郎は、演劇評論家としてそのキャリアをはじめて、小説家、劇作家、演出家として昭和の演劇界に君臨する存在になりました。通して読むと…
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#喜多村

松竹が新派へ対する冷ややかな態度を憤慨するあまりに、酒がのめたのだと笑った。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第二十五回)

 大正・昭和期に活躍した新派の俳優 柳永二郎は、『新派の六十年』のなかで、新派の演目の内容的な観点からの分類を行い、「八」として新聞小説、文藝作品脚色時代をひとつの項目にあげている。  その代表的な演目として、広津柳浪『目黒巷談』、大倉桃郎『琵琶歌』、尾崎紅葉『金色夜叉』、小栗風葉『恋慕流し』、鏡花『婦系図』『通夜物語』があり、「九」の項目にあげられた花柳情話時代にも、鏡花『日本橋』が現れる。 「創作戯曲には、その(新派の)創始期から発見に努力を重ね、その得られる限りは各

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初代喜多村禄郎は、明治四年、東京、日本橋の薬種商の子として生まれた。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第二十四回)

 万太郎がはじめて新派の喜多村禄郎と会ったのは、大正四年、鏡花の『日本橋』が、伊井蓉峰の葛木晋三、喜多村禄郎の稲葉屋お考の配役で初演された本郷座の楽屋である。  鏡花はその前年、小説『日本橋』を、小村雪岱の装幀で本郷曙町の書肆千草館から上梓している。  刊行される早々、喜多村は上演の許可を鏡花に得た。  脚色にあたったのは、のちに歌舞伎作者として一家をなす真山青果だが、「生理学教室」の場にこだわりを持った鏡花は、みずから東京帝国大学医学部に調査にでかけ、台本に朱筆を入れ

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「さふいふ若いかくれた読者のあることを認めて頂きたい-----先生のために先生の芸術のために」(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第二十三回)

 万太郎が鏡花に会う機会は意外に早くやってきた。  瀧太郎留学の翌年、明治四十五年十月、俳句結社ホトトギス主催の観能会が水道橋の喜多能楽堂であった。  鏡花を見かけた万太郎は、いあわせた生田長江に頼んで紹介してもらったのである。  万太郎の内気な性格からしても、何か理由がなければ紹介の依頼もできずに、遠くから憧れのまなざしをそそぐばかりだったろう。  けれど、万太郎には、意を決して紹介をたのむための、よき口実があったのである。事情を話し、 「一度お宅へお邪魔したい旨」を伝

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