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久保田万太郎、あるいは悪漢の涙

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今となっては、俳人としての名が高いけれど、久保田万太郎は、演劇評論家としてそのキャリアをはじめて、小説家、劇作家、演出家として昭和の演劇界に君臨する存在になりました。通して読むと…
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#小山内薫

この年、何にもしるすべきことなし、たゞ、もう、でたらめだつたのなるべし。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第二十回)

 家業の不振、執筆の行き詰まり、妹の死、友人たちの外遊。  万太郎にとって暗い日々に救いとなったのは、大正四年一月に、荷風、薫を擁してして結成した古劇研究会である。  万太郎は、古劇研究会の結成からは、ずいぶん時間の経過してからの文章ではあるが、 「まづ、木下杢太郎だの、長田秀雄だの、吉井勇だのといつた詩人なり戯曲家なりに呼びかけ、一方、楠山正雄、河竹繁俊、さては岡村柿紅といった演劇評論家を誘った」(「大正四年」)  と昭和三十七年、新橋演舞場で上演された『天衣粉上野初花

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二十六七の時分、わたくしは、わけもなく日の光をきらつた。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十九回)

 この年の十二月、演劇研究のために小山内薫は、シベリアを経てヨーロッパに向かう。出発前には、土曜劇場主催の送別演劇が行われた。 「『土曜劇場』を全くじぶんのものとして愛していた。西洋から帰ったら、一つあいつを自分の思うとおりなものにしてやろうと思っていた。」(小山内「新劇復興のために」)  が、旅先のパリの大使館で受け取った手紙には、土曜劇場の瓦解が報告されていた。  指導者不在のあいだ、ストリンドベリ『父』やイプセン『鴨』の上演が好評をもって迎えられ、有頂天になったあげ

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いつの日かまた、じぶんの戯曲が舞台にのるときがくるのだろうか。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十八回)

 ある日、慶應大学で小山内薫は万太郎に声をかけた。 「『暮れがた』をやらしてもらうかもしれないぜ」  万太郎は本気にせず、 「どうぞよろしく」 といい加減な返事を返した。    それからしばらくすると、連絡があり、田原町の生家の二階で、女形の市川貞次郎が連れだって現れた主事の川村を迎えた。  世間話のあと、川村はスケッチブックを取りだし、「舞台をこうしようと思うのだが」と、大道具の見取り図まで書きはじめたのである。  明治四十五年三月に、小山内薫は、新派の俳優藤澤淺二郎が

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花柳界は、虚実のかけひきのなかで、恋愛を商品とする。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十七回)

 小島政次郎の『久保田万太郎』は、「まだ、対(たい、ルビ)で芸者と遊んだことのない私達は、芸者に対して一種異常な憧れを抱いていた。芸者といえば、荷風の相手であり、十五代目(市村)羽左衛門の相手であった。 そこに何かロマンティックな幻影を勝手に描いていた。」と、当時の文学青年が花柳界に抱いていた心情を語っている。  年若くして華やかなデビューを飾っただけに、万太郎には、実社会の経験もなく、生地浅草と家業の職人の生態のほかには、身をもって知る世界はない。  題材に窮した万太郎は

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しぐるゝや大講堂の赤煉瓦 (久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十六回)

4 小山内薫     小山内先生追悼講演会  しぐるゝや大講堂の赤煉瓦 「感情(かんじやう)の動(うご)き方(かた)があまりに微弱(びじやく)で、読(よ)んでは受取(うけと)れても、演(えん)ぜられては受取(うけと)まいと思(おも)はれる憾(うら)みがある。」「観察(かんさつ)の態度(たいど)の如何(いか)にも『芝居(しばゐ)』を離(はな)れた所(ところ)のあるのを買(か)つたのである。 ----小山内薫『万太郎「Prologue」選評』  荷風と時を同じくして、森鴎外

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