「冬の牡丹」を読んで
読書感想文は苦手だ。でもこんなにも心が波立って仕方ないのでその気持ちを吐き出したい。
桜庭一樹短編集に収録されている一遍。「冬の牡丹」
32歳の美しい元エリートの女性牡丹がアパートの隣の部屋に住む高等遊民な老人と出会い交友を深める話だ。
読み進めるうちに胸が詰まって最後のページは滲んで見えないほどだった。
人が死ぬわけでもない、大恋愛も青春も無い。都会の片隅で紡がれたなんてことない話だ。
しかし牡丹への共感で私は泣いてしまった。
とはいえ私と牡丹の共通点は多くない。
私は牡丹のように誰が見てもハッとするような美人ではないし、秀才でもなかった。エリートコースには乗ったことがないし、家族との付き合いも上手くいっている。それらが描写された前半は彼女と老人田沼慎との軽妙なやりとりや繊細な情景に読み入っていた。
彼女への共感は物語の終盤に一気に高まった。
彼女は居酒屋で田沼の息子に出くわし、彼が田沼に抱えている思いを吐露される。好きなように生きている人間がいたら、それが人に迷惑をかけない生き方でも、誰かの犠牲があるんじゃないかと。彼は「誰かのポイントを無断で使い込んでる」と表現した。
私は彼の発言に、たまにSNSなどで見かける人々を思い浮かべた。得をしている人間がいたらその分損している人間もいるはずだという考えなのか、成功者や人気者を憎む人。そう言った人たちを見かけるたびに私は蔑み理解を放棄した。
しかし彼は牡丹に「わかってほしくてたまらねぇ」「親父がわかってくれねえからすごく悔しい」と溢すのだ。人と人との分かり合えなさ、伝わらない辛さ、この短編集の他のおはなしにもえがかれていた。彼は理解できない人でなしではない。苦しみながら現実を生きる人間として牡丹の前に立ち塞がり、大人しく席に戻っていくのだ。そして牡丹は彼の言葉に反論できなかった。
彼女と田沼に共通する自由な生き方は私の生き方に似ている。必要なだけ税金を納め、好きなものに囲まれて暮らしている。これといって夢や目標はなく、まるで余生だ。
私は親戚の家に行くのが嫌いだ。毎度聞かれる「彼氏は?」「最近どうしてるの?」にうんざりする。悪気があって聞いているわけではないことは理解している。しかし学生さんでもない、ただ毎日なんとか労働してたまに好きなものを買ったり食べたりしている人間の近況なんてここ数年変わらない。ギターを始めたとかちょっと大人っぽいバーに初めて行ってみたとかそのくらいだ。
しかしそれでは彼らは許してくれない。買ったっきりで久しくやっていないTOEICのテキストの存在を思い出し、「最近英語の勉強してるんだよねえ」と捻り出してようやく猛攻が止むのだ。ギターはダメで英語ならいい、というジャッジが嫌いだ。何をもってわたしの時間の使い道を判断されなきゃならないのか。
この、親戚達が下す判定こそが、牡丹が感じていた、大人たちによるつまらない若者たちを赦さない目と同一のものだと思った。
私は世間で充分に大人と呼ばれる歳だ。主人公の牡丹もそうだし、田沼慎はすでに老人だ。でも私は、きっと大人になることなんてできないと思う。作中の登場人物もみんなそうなんだろう。「世間」側の人間のように描かれていた田沼の息子さえ。
みんな大人になれないまま、実態の知れない「世間の大人たち」に怯えて、表面上大人のように振る舞って生きていくだけなんだろう。もしそうなら、牡丹と田沼のように、分かり合えなさを分かち合える人もどこかにいるのかも知れない。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?