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考えすぎてしまう私たち

今日は助手さんとお話しした。

その中で、人にわかってもらえない感覚についての話になった。
助手さんの例をあげると、彼女は幼少期からハートにぽっかり穴が開いた感覚がどこかにあって、それについて母親に語るも、あなたの話にはついていけないと言われたとのことだった。
小学校に上がってからも、「人はなぜ裏切るのだろう」みたいなことを泣きながら語ったら、母親に「いつかどこかにその感覚を分かってくれる人が現れるから」と言われたそうだ。

私は少し違うのだが、似たような感覚を持っているよねと盛り上がった。
共通しているのは、考えすぎてしまうことだ。
「なぜ人は生きているんだろう」「なんのためにこんなことをしているのだろう」「なぜみんな一緒に学校に通って、いったい何をしているんだろう」といったことについて、よく考え込む癖がある。
答えはでないのだけれど、考えて考えて考えていけば、いつか真理みたいなものにたどり着けるのではないかと思っていた。

それは彼女も同じだったようで、「私は、いつも考えが浅いから真理にたどり着けないんだと思って別の角度からも考えていって、360°からその物事を考えるの。それでも最近気づいたのは人の頭で考えれることって結局そこまででしかなくて、もっとこの世は変で不思議だから考えても意味がないんだなって思ったの」と言っていた。
これに関しては大きく頷ける。本当に私みたいなこと考えてるんだなと思った。

周りの人にわかってもらえなくない?と言われた。彼女は私よりも感覚的なものが強いような気がする。
私は言語でものを考えるから、自分の中で筋が通ってると思ったことしか言わないのでわからないですといったが、もしかしたら、私の根本にある他人への不信感みたいなものはここから来ていたのかもしれないなと思った。

私は後輩にいい意味で人間味がなくて好きと言われたことがある。
最近も仲のいいクラスメイトにあさちゃんは重たい話でも軽い話でも同じテンションで動じないで話聞いてくれるとこがいいよねと言われた。

なんていうか、根本的に人を信用していないのかもしれない。信用していないというよりは、人に期待をしていない。
多分いい意味で人に期待をしないようにして生きているから、だから人にわかってもらいたいという気持ちもあまり表に出していないし、積極的に自分の話をしようとしないんだと思う。なんで私は自分の話を人にするのが苦手なんだろうと思うこともあるが、もしかしたら、話してもわかってもらえないことをわかっていたから、たまーに自分と似たような人に出会ったときにしか深い話をしようとしないんじゃないかなと思った。

「ここ最近はもう考えるのやめたんです。」
考えても無駄だなと思ってという話をすると、彼女は、私は何十年も生きてきてやっっっと最近考えても意味ないな。って思えたのにすごいって褒めてくれた。
これから楽しみだねって言ってくれた。
嬉しかった。


考えても意味がないのは、過去や未来の話になってしまうし 未来のことは考えてても不安になるし、考え続けても真理はわからないのにネガティブな発想にしかならないからだ。
それよりも手を動かしていた方が、なぜ?という気持ちはそのままに日々を送っているとふと、突然答えが現れることがあるからだ。

同じ結論をだしている人がいるんだなと思って少しうれしかった。

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