見出し画像

アート作品の条件 —A・C・ダントーの視点から—

はじめに

これは、今日において迷走するアート作品の定義について、アメリカの哲学者・美術評論家であるA・C・ダントー(1924-2013)の芸術哲学思想を用いた考察である。「art」(アート)という言葉は、日本語に訳される場合、その文脈に合わせて「美術」や「芸術」という言葉が用いられる。日本語の「美術」は絵画・彫刻・書・建築・工芸などの造形芸術を意味するのに対し、「芸術」という言葉は音楽・文学・演劇・映画などの多様な表現方法を含むニュアンスで用いられ、「美術」より広範な概念である。今回の取り組みにおいては、外国語(英語)の文献に登場する「art」という言葉は、そのままアートと訳すことにする。

Arthur Coleman Danto/1924‐2013

この考察での問題意識は、アート(芸術)ワールドにおいて、アート作品とは何のことなのかという純粋な疑問が発端となる。国外のオークションでは、日本人の現代アーティストの作品が破格の値で取引されることは珍しくない。今日においては、あらゆる場所で作品はアートとして台頭し、多種多様に展開している現状がある。多彩な表現技法は、アートを多面的なものにしている。その反面、今日のアートワールドにおいて、あらゆる形式を用いた作品が無条件にアートとして取り扱われる場面が散見されることで、作品がアートであるのか、それともアートとして認められないのかという、それ自体の是非を問う明証的な基準を見出すことが難儀を極めるという危機に瀕しているのではないか。アート作品における定義を見出すことは暗礁に乗り上げているのではないか。このような意識から端を発し、「なんでもあり」な不法地帯だと捉えられるアートワールドにおいて、作品の普遍的なアート要素について考察する。

アート作品を存在論的にとらえることを前提としている。「アートである(being art)こと」と「何ものかがアートである(something is art)こと」という二つの見方がある。後者は「何ものかがアートであるのか否か」について探求する認識論的な姿勢であり、今回は採用していない。前者の「アートであること」、つまり「何が作品をアート作品たらしめているのか」という問いに対して答えを導く試みである。諸々の美学を用いて、アートを開かれた概念としてみるのではなく、むしろアートを閉ざされた概念としてとらえる姿勢である。

今回はJ=ルイ・ダヴィッド『マラーの死』、A・ウォーホル『ブリロ・ボックス』の詳細とそれらの作品に付随するダントーの考えを順に取り上げる。

受肉化された意味であること

ダントーは、アート作品は「何ものかに関わり、それに応じて意味をそなえる」特質を持つものだと述べた[1]。意味というのは物質的なものでなく、それを備えた物体に受肉化(embodied)されているとし、アート作品とは受肉化された意味(embodied meanings)であると言明した。

J=ルイ・ダヴィッド『マラーの死』

ここでは、J=ルイ・ダヴィッドの『マラーの死』という作品をもとに思考する。この絵画は、山岳派の指導者ジャン=ポール・マラーが入浴中、ジロンド派の支持者であるシャルロット・コルデーによってナイフで刺され、無気力に浴槽に横たわり、まさに死を迎える場面が描かれている。ダヴィッドはフランス革命において積極的な役割を果たし、何年かのあいだフランス美術界の権力をほしいままにした。革命の政治的指導者の一人であるマラーが浴槽の中で殺されていたという、群小画家なら当惑したであろう題材から、ダヴィッドは深い情感をもって傑作を描き上げた。殉死した英雄を記念するため計画されたこの絵では、古典的美術と礼拝用画像および歴史的事実の説明が一つになっている[2]


[1] A・C・ダントー、『アートとは何か:芸術の存在論と目的論』、佐藤一進訳、人文書院、2018年、44-46頁。

[2] H・W・ジャンソン、『美術の歴史:第二巻』、村田潔, 西田秀穂訳、美術出版社、1990年、271頁。


この作品について、ダントーは以下のように述べる。

『ダヴィッドの絵画についての解釈はこうである。ダヴィッドは湯船のなかのマラーを描写している。不快な皮膚病の痛みの緩和に湯水が役立ったため、湯舟のなかでマラーは相当な時間を過ごしていた。マラーの手前には、コルデーの短剣と滴り落ちた血。死に際してマラーは、彼を死にいたらしめた凶器を前に、仰向けに横たわっている。湯船のマラーは、墓のなかのキリストになぞらえられる、とわたしは解釈する。この絵画は、イエスがそうであったように、マラーが復活するであろうと示唆している。(中略)しかし、いずれにせよ、キリスト教徒のためにイエスが死んだように、マラーは鑑賞者のために死んだのであり、それゆえマラーは、サン=キュロット―――革命派一般はそう呼ばれた――の殉教者に相当するとも考えられる。しかし、ちょうどイエスが居合わせた者たちに、自分の足跡に従うことを期待したように、マラーは革命のために暴力死を遂げたのだから、鑑賞者つまりあなたは、マラーの足跡に従うことを命じられる。鑑賞者は、絵画のなかに見出されないとはいえ、絵画の一部なのである。ダヴィッドはきわめて重要な瞬間の、非常に見事な再現表象(リプレゼンテーション)の前に立つよう鑑賞者たちに呼びかける。その場面は革命派の観衆に訴える。』

A・C・ダントー、『アートとは何か:芸術の存在論と目的論』、49-50頁。

上記は、なぜデザイナーのJ・ハーヴェイが生み出したブリロの箱を「模倣」した作品であるウォーホルの『ブリロ・ボックス』がアートとして存在するのかを説明している。購買力増進という確固たる目的のもと、ハーヴェイによって誕生したのは、単なるデザインである。大量生産され、大量消費されるという点においては、大衆文化(ポピュラー・カルチャー)に属しているといえる。しかし、ブリロの箱は肝心なアートとしての様式を備えていない。いわば、日用品の一部である。これに対し『ブリロ・ボックス』は、作品と鑑賞者という構図を生み出すことを前提にアーティストによって生み出されている。そして、既製品という大衆文化を再構成することで、作品は大衆文化に帰属し、そのうえでポップ・アートという表現形式に属している。このことから、アート作品は当の文化それ自体に適合的な様式を備えているといえる。

文化に属する様式であること

つぎに彼は、アート作品は、「その文化に属する様式(style)を備えなければならない」[3]と述べる。アートの定義とは、それらがいつ制作されたものなのか、あるいは、いつ制作されることになるのかにかかわらず、アート作品に備わる普遍的なアートらしさを把握するものでなければならない。そのため、数ある文化の間で異なるアート作品の数々は、アートの定義に属するものとはなっていないという。

アンディ・ウォーホル『ブリロ・ボックス』

ここでは、A・ウォーホル『ブリロ・ボックス』という作品をもとに思考する。1964年、ウォーホルは『ブリロ・ボックス』を制作した。「ブリロ」とは、チャーチ・アンド・ドワイト社(Church & Dwight Co., Inc.)が販売している粉石鹸がまぶされた使いすての金属製タワシの商品名である。そのブリロの箱をテーマにした作品が、『ブリロ・ボックス』だった。ブリロの箱は、商業デザイナーであったジェイムズ・ハーヴェイのデザインである。ハーヴェイの箱は、単なる容器ではなく、ブリロを視覚的に褒めちぎり、世に広く知らしめるためのものである。二つの波打つ赤い帯と、それを隔てて波打つ白い帯とで彩られ、白い帯は赤い帯の間と、箱の周囲を川のように流れている。「ブリロ(Brillo)」という語は子音字が青の、母音字のiとoが赤のはっきりした文字で、白い流れの上に印刷されている。赤、白、青はトリコロールであり、同時に、波形は水の属性である。白い流れは、洗い落とされた油分を隠喩的に含意している。つまりこの箱は、これを見た人に対し、消費行動へと心を動かすことを意図したものになる。実際のブリロの箱はダンボールだが、ウォーホルはこれを木で制作している。木製の立方体に白い色を塗り、ブリ口の外サインをプリントしている。キャンベルスープ作品がウォーホルにとっての"絵画”だとすれば、ブリロの箱は、さしずめ彫刻作品としてとらえることができる。[4]


[3] A・C・ダントー、『アートとは何か:芸術の存在論と目的論』、51頁。

[4] 森村泰昌、『自画像のゆくえ』、光文社、2019年、470-471頁。


この作品について、彼は以下のように、述べる。

『ハーヴェイのブリロ・ボックスがアートであることを否定するのも難しい。それはアートではあるが、商業アートである。デザインが決められるや、何千ものカートンが製造される。それらは波形段ボール製であるが、それは持ち運びに十分なほど軽い一方で、中身を保護するため、そして簡単に開封できるようにするためである。そのいずれもが、ごくわずかな数しか制作されず、その目的を純粋に見られることと、アートとして理解されることとするアンディのボックスには当てはまらない。商業アートがアートであることを、ただそれが功利主義的だからと否定するのは、純然たる俗物根性に他ならない。加えて、段ボールのボックスは、生活世界の一部をなしている。しかし、アンディのボックスはそこが違う。それはアートワールドの一部をなしている。ハーヴェイのボックスは視覚文化(ヴィジュアル・カルチャー)に属しており、その通りに理解されているが、アンディのボックスは高級文化(ハイ・カルチャー)に属している。』

A・C・ダントー、『アートとは何か:芸術の存在論と目的論』、55頁。

『ウォーホルのボックスはポップ・アートの一つであるが、そう呼ばれるのは、それが大衆文化(ポピュラー・カルチャー)のイメージについてのアートであったからである。ハーヴェイのボックスはポビュラー・カルチャーに属しはするが、それがポップ・アートの一つではないのは、それがポピュラー・カルチャーについてのアートではまったくなかったからである。ハーヴェイは明らかに、大衆の感受性に訴えるデザインを創り出した。ウォーホルはそうした感受性を意識にまで高めた。ウォーホルが非常に大楽的な一人のアーティストであったのは、民衆が、ウォーホルのアートは自分たちについてのアートであると感じていたからである。しかしハーヴェイのボックスは、民衆についてのものではなかった。それはブリロについてのものであった。アルミを磨いて輝かせることが毎日の家庭内の暮らしぶりの審美性に属するものであったがゆえに、ブリロは彼らの世界に属するものであった。』

A・C・ダントー、『アートとは何か:芸術の存在論と目的論』、161-162頁。

上記は、なぜデザイナーのJ・ハーヴェイが生み出したブリロの箱を「模倣」した作品であるウォーホルの『ブリロ・ボックス』がアートとして存在するのかを説明している。購買力増進という確固たる目的のもと、ハーヴェイによって誕生したのは、単なるデザインである。大量生産され、大量消費されるという点においては、大衆文化(ポピュラー・カルチャー)に属しているといえる。しかし、ブリロの箱は肝心なアートとしての様式を備えていない。いわば、日用品の一部である。これに対し『ブリロ・ボックス』は、作品と鑑賞者という構図を生み出すことを前提にアーティストによって生み出されている。そして、既製品という大衆文化を再構成することで、作品は大衆文化に帰属し、そのうえでポップ・アートという表現形式に属している。このことから、アート作品は当の文化それ自体に適合的な様式を備えているといえる。

うつつの夢であること

上記では、実物とアート作品が知覚的に識別不能であるという今日のアートにおける問題について取り扱った。しかし、アートワールドのみならず、哲学の世界において同様に、夢と知覚を比較するという事例が存在することを指摘する。ここでは、デカルトの『省察』第一章から引用する。

René Descartes/1596-1650

「眠りのなかで私は、狂人たちが目覚めているときに経験するのと同じことをすべて経験し、あるいはときとして、それ以上にありそうもないことさえも経験しているのである。事実、私は着物を脱いで寝床のなかに横になっているのに、いつもどおりのこと、つまり、ここにいて上着を着て暖炉のそばに座っているということを、夜の眠りにおいて何度信じ込んだことであろうか?いま私は、たしかに目覚めた目でこの紙を見ている。私が動かしているこの頭は眠っていない。この手を放意に、意識して伸ばし、感覚している。これほど判明なことは眠っている人には起こらないだろう。だがそれは、私が別のときに、眠りのなかで、やはり同じような考えによってだまされたことがないとでも言わんばかりである。このことを注意深く考えてみるに、目覚めと眠りとを区別することができる確かな標識がまったくないことを私は明確に見てとって驚くあまり、この驚き自体が、私は眠っているのかもしれないという意見をほとんど私に確信させるほどである。」

ルネ・デカルト、『省察』、山田弘明訳、筑摩書房、2022年、36-37頁。

ときに、夢を見ていることと知覚していることとを区別する内的な方法は存在しないといえる。一例を挙げると、ときにわたしは机の上で文章を書いている夢を見るが、そのとき実際のわたしはベッドで眠りについている。つまり、われわれは夢と覚醒状態の経験とを識別できない場面に遭遇する。これこそが、ブリロの箱と『ブリロ・ボックス』の間における問題と同様の状況なのである。両者は、私たちがみる限り区別不能である。ここで彼は、アートは「うつつの夢」であるという。

『わたしはアートを「うつつの夢(wakeful dream)」と定義する。わたしたちが望むのは、アートの普遍性を説明することである。言いたいのは、アートによって誰もが、どこでも夢を見るということである。通常、夢を見るためには眠っていることが要求される。しかし、うつつの夢は、目覚めていることを要求する。夢は数々の外観から構成されるが、それらは、それら自体の世界にある事物の外観でなければならない。事実、博物館に収蔵されているさまざまなアートは、さまざまな文化によって生み出されている。』

A・C・ダントー、『アートとは何か:芸術の存在論と目的論』、61頁。

ここで、アートと夢の両者における類似性が認められる。わたしたちの身の回りにある日用品と、アート作品との間に視覚的に認知可能な区別がない。これと同様に、実生活において知覚することと夢を見ている状態とでは感覚においては識別できない。しかし、わたしたちが日ごろ見ている夢はこの上なく個人的なもので、当の本人でさえ曖昧であるが、対して、うつつの夢は、共有することが可能である。うつつの夢であるアートは、私的で共有ができないような要素によって構成されているのではない。アートはうつつの夢であるがために、わたしたちの間で共有可能な文化の一部である。この点から、客観的とは言わないが、アートは「間-主観的」であると結論付けられる。

まとめ

今回は、ダントーの芸術観において、アートが「受肉化された意味であること」、「文化に属する様式であること」、「うつつの夢であること」について考察した。これらは一つひとつ定式化された各条件ではなく、アート作品がアートであるという証明のための要素であるという理解である。
彼が重視している点は、実物とそれを模倣したアートとの間において、目に見える差異が何もなかったとすれば、それ自体がアート作品であるためには、目に見えることのない差異が存在していなければならないということだといえよう。特に、彼がウォーホルの『ブリロ・ボックス』を用いるとき、アートと実物(物体)の間の視覚的な差異に着眼点を置くことこそが、彼がこのことを重視する態度の現れなのである。
また、ウォーホルの『ブリロ・ボックス』は実物の「コピー」に過ぎないと考える人が多いと考えられる。しかしながらダントーの考えによれば、ウォーホルのアート『ブリロ・ボックス』を模倣した作品(実物の「ホンモノ」の「偽物」「コピー」)の存在を想定したとして、それはアートとして定義できないと結論付けられる。それは、アートとしての『ブリロ・ボックス』である両者においては、差異が存在しえないからである。『ブリロ・ボックス』は、食器用パッドの外箱であるブリロ・ボックスを象徴する存在である。この現実にあるブリロ・ボックスは、あらゆるデザインと文言によってブリロ製品を美化している。『ブリロ・ボックス』は、実物のブリロ・ボックスと同じように見えるという点で、『ブリロ・ボックス』はブリロ・ボックスを「受肉」していると形容できる。
アート作品は、そのモデルである実物からは本来隔てられている存在なのだ。つまり、アート作品は、同一の表現様式をもつアート作品自体を象徴することはできない。その両者において、同一の意味を備えているため、差異が存在しえない。仮に『ブリロ・ボックス』を模倣した作品が存在すると仮定したとして、彼はそれ自体にアートとしての価値は認められないだろう。
今日のアートワールドでは、意味を「受肉化」することに用いられる形式や手段が制限されることはほとんどない。作品が、アートワールドにおいて価値を持たないなにものか、それとも、真にアート作品であるかについて、ダントーの視点にたって思考することは、これまでのアートの歴史だけではなく、これからのアートの展望についての重要な手がかりとなるだろう。

補足

今回、取り扱ったダントーによるアートの定義は、その普遍的条件を模索する彼の芸術概念の氷山の一角に過ぎず、そのすべてについて考察することは不可能であった。『The Transfiguration of the Commonplace〔ありふれたものの変容〕』[1981]のなかでダントーはアートの本質を定めようという試みを強く展開する。その一方で、アートの定義を明確に定式化することは解釈者にゆだねられている。多くの論者がダントーの主張を取り上げるなか、 分析美学の研究で広く知られるアメリカ合衆国の哲学者であるノエル・キャロルによるとアートの定義は以下のように定式化される。

Xが芸術作品であるのは次のとき、かつ、そのときにかぎる。すなわち

(a)Xがある主題をもち、

(b)その主題に対して、Xがある態度・視点を提示しており、

(c)その提示が、修辞的な省略(rhetorical ellipsis)によってなされ(通常その省略は比喩的になされる)、

(d)その省略が、欠けている部分を補塡するよう観賞者の参加を要求し(解釈)、

(e)さらにそこで、作品と解釈の両方が芸術史的文脈を必要としているとき
である。

以上が、彼が生涯を通して取り組んだ、定式化されたアートの定義である。今回の試みにおいて読み取れた箇所は、(d)及び(e)の一部分にすぎず、これ自体正しいのか定かではない。特に(c)と(d)のつながりの部分である「態度を示す比喩的な省略が鑑賞者の参加を要求する」ということについて理解に至っていない。
現代アートや抽象絵画においてそのすべての作品が主題をもつわけではない。また、芸術に限らず、建築や音楽などもアートであるがそのすべてに上記の定義が当てはまるかどうか懐疑的である。本考察をもとに広義の芸術について考察してみたい。

いいなと思ったら応援しよう!