「形だけを真似ても上手くならない」は本当か
「形だけを真似ても上手くならない」
多少の表現が変わったりはしますが、色々なところで目にする言葉です。合気道の開祖もおっしゃっていたとのことで。(『植芝盛平と合気道2』より)
私は、恐れ多くも学生時代、この言葉に疑問を抱いていました(笑)
この言葉の意味合いとしては、技の外見だけを安易に真似ずに「内側で何が起こっているかを知る」であったり「技の理屈を理解する」といったことの大切さを説いていると推測できます。
それ自体を否定する気はもちろんありません。むしろその通りでしょう。その師範の根幹となる技術を身に着けることが大切であり、形だけを真似るのはその枝葉にとらわれていることを意味するともいえます。
現実的な問題
しかし、この言葉で気になるポイントが2つあります。
1つ目は、形を教える師範の存在です。
本部道場では技の形を丁寧に指導する師範はたくさんいらっしゃいます。これは師範が形を真似ることを求めているわけで、本当に上達できないのであれば、なぜそのような指導をするのでしょうか?
2つ目は、その言葉はすべての稽古人に対して適切なのだろうかという点です。
例えば、白帯や、新しい師範について間もない稽古人に対してはどうでしょうか。彼らに対して「形だけを真似ても~」と言ったところで、それでは見取りで何を見ろというのか、という話です。
つまり「形だけを真似ても上手くならない」というのは、言いたいことは分かるが安易に使うのは危険な言葉で、まずは形だけでも真似てみないことには何もできないということです。
むしろ形を真似ることが大切
むしろ私は、形を真似ようとしないために学べない光景をたくさん目にしてきました。
本部道場は色々な師範がいらっしゃるためか、稽古人にも色々な技の形があります。
稽古の中で、その師範とは似ても似つかない技をしている稽古人は珍しくありません。
せっかく自分よりも圧倒的に上手な方が手本を見せているのだから、せめて形だけでも真似てみては?と思ってしまいます。
もちろん自分のスタイルを確立している指導者であったり、単なる稽古場として利用しているだけの稽古人なら構いませんが。
見取りでウンウン頷いたり、師範に指導され、なるほどというリアクションをしているのに、その後の技の形が全く変わっていないということは珍しくありません。
今の自分の技を一旦忘れて、師範の技を真似てみようと思える人がどのくらいいるでしょうか?
その形である意味を考える
「形だけを真似ても~」という言葉に違和感を覚えるのは、上記の他に、「そもそも、形そのものにしっかり意味がある」という視点が抜けてしまっているためです。
どういうことかと言うと、師範の技の形というのは「師範の技を行う上で最適化された形である」ということです。
つまり、「師範の技の形を真似る」ということは、「その技を行う上で適した形に近づける」ことです。そして、師範もそれを稽古人に教えているのです。
それに対して「形だけ真似ても~」というのは、その通りかもしれませんが、そのような稽古の上ではほとんど意味をなさないと考えられます。
真似ることは上達に繋がっている
真似るといっても程度によりますが、そもそもコピーするほどに真似るというのはそう簡単なことではありません。
それは相手が存在しているからです。
相手がサービス受け身をしてくれる人であれば別ですが、相手が重ければこの角度だと相手にぶつかる、この位置だと接点を動かせない、といった問題が必ず起こります。
こういった身体の反応・手ごたえに基づいて技を変えていくことを私は「体で考える」と表現していますが、形だけを真似ようとする人も、このような稽古法にシフトしていくのが自然だと考えます。
この稽古法を主にやっているのは学生でしょう。
学生は数をこなして、取りも受けも体にしみ込ませます。そして大学を出て、外部で稽古するときに動かない上級者や高段者との稽古を重ねることで、技の帳尻を合わせたり、またはブレイクスルーをしていくことが可能となります。
問題は形だけを真似ている『状態』
結論としては、形だけを真似ることから上達するアプローチはあるということです。
ですので、タイトルの表現を厳密にいえば「形だけを真似ても上手くならない」ではなく、「形だけを真似ている『状態』は上手いとはいえない」が正しいでしょう。
従って、まずは形を真似ることから始めるでも全く問題はないと考えていますし、技が上手くいかない(⇒真似できていない)ときにきちんと対応していくこと、それができれば形だけを真似ている『状態』から自然に脱却できるのではないかと思います。
それでは、明日も楽しく稽古しましょう!!