僧侶の役目を考えてみた。「誰もが平気で生きていけ!」お前にこの世の真実に向き合う覚悟はあるか?仏教とはただの「事実」のことで、しかしその「事実」が実に尊いという話
僧侶の役目ってなんだろうなって、ふと考えたんです。
僧侶は昔からある職業ですが、今インターネットで調べると「仏教の教えを学び、実践する出家修行者のことで、仏教の戒律を守りながら修行を続けるもの」とあります。
また最近では、
寺院の運営
仏教イベントの企画・運営
葬儀、法事、戒名授与などの仏教形式に則った冠婚葬祭の執り行い
カウンセリングや仏教講座など、現代社会に合わせた活動
仏教の教えを広めるための集会「法会(ほうえ)」で、教訓を織り交ぜた説法を伝える
こういったことを行うことが僧侶の役目とされております。
私の思う僧侶の役目は簡単に言えば大衆の方々を救うこと。これだと思っています。
大衆に支えられての私で、大衆に支えられての経済、世の中だからです。それらがよくなってもらわないと自分の生活も良くならない、結局は自分のためになるからそうやって言っているのかもしれませんが笑
大衆は悩んでいます。いつの時代も。特に現代においてはその悩みの大きさや種類も様々で、悩みを抱えていない人間などいないです。おそらく。
本当に多くの人間が悩んでいることでしょう。
そこをなんとかしていく。理屈抜きで。これが僧侶の役目ではないかと。現代の僧侶にかかる期待も大きいってことですね。
「大衆を救う。」そこでいうと、やはり安心なんですよね。人は自分の心を優先にして生き、何をするにしてもその心によって人生を見ているからです。
しかしどうしても自分の心を優先にしていると壁にぶち当たる。心には形がなく、人によって捉え方が変わるからです。なのでそこで争いになったりひどく傷ついたりする。
それが我々の生活ですね。心を優先にして生きている我々の代償です。でも仕方ないですね。心や価値観はどうすることもできません。なので傷つくこと、人と争うこと、これはもうどうすることもできないことなのです。これからも我々の生活に何度も登場してくることを覚悟しましょう。
しかしその際この安心があればその心が救われます。
どんなに傷ついても心が安らぐ場所、何かそういったものがあれば我々はそんな辛い生活も乗り越えていけるのではないでしょうか?
そこをお伝えしていくのが我々の仕事なのではないかと。
それではその安心とは何か?これがわからないことには伝えようがありません。
そもそも本当の「安心の形」とは万人にとっても同じものでなければならない。そのように考えております。万人に共通している安心=人間にとっての本当の安心だからです。
それがなんなのか?
それは我々が今いただいている本来の命とはなんなのか、また我々が生きているこの世界とはどういったものなのか?これをまず知ることで見えてくるものだと思っています。
我々は性格や生まれ、価値観、そういったものが全く違います。しかし今こうしていただいている命や、その命を持って生きていく世界というのは誰もが同じものをいただき、また誰もが同じところで生きていくんですよね。
そんな尊い命や世界をいただいている。そこが我々の安心のポイントです。このことについてはもう語り尽くされている感はありますが、これ以外ないわけですね。
まずそれらは実に尊いものだということを再認識すること。まずは僧侶である自分が再認識しましょう。
例えば我々人間が仕事をする時というのは、何か指示があってそれを行います。あるいは何か狙いがあって、そこに向かって動いていくわけです。
我々の人間生活における基本はこれです。人間による狙いや指示、こうしたものが先立ってあって、成り立っているわけです。
しかしそれはそれとして、今こうして自分がいただいているこの体というのは、何も指示をしなくても食べたものを消化して排泄したり、寝ている間でも呼吸をしたりしてくれているわけです。
からいものは消化しない、甘いものだけを消化する。お肉は消化するが嫌いなニンジンは消化しない。そんなことは決してないわけですね。
そこでいうと人間の思惑と我々の実際の「命」とは関係がないのです。
辛い、悲しい。一方で楽しい、ワクワク、そんな気持ちを常に抱き、繰り返しながら生きている人間の思惑とは裏腹に、どのような状況であっても指示をせずとも淡々と生命活動を行なってくれているわけです。
そしてそれがないと我々は生きていけません。そんな生命維持活動を指示なく自動で行ってくれる。なんて尊いことなんでしょう。
逆に言えばそういった生命活動だけでもできれば、我々は生きていけるわけです。
つまり生きていくためのスキル、ここにおいては誰もが初めから同じものを持っている。
まずはここが安心のポイントとなるはずです。総理大臣や有名人、知名度や頭が良い、悪い、そういった違いこそあれど、肝心の「生きていくためのスキル」というのは我々と同じで、誰もが平等に与えられているということ。
我々の存在そのものが実に尊いということなんです。呼吸や消化、排泄。しかもそれらは何も指示しなくても平気でやってくれるんですよ?休みなしで。
特に呼吸なんて、生まれてかたこの方何回やってきたことでしょう。寝ている時も起きている時も、受験の時も恋人とデートしている時も、いずれも休みなしでこの体が行ってきてくれました。
そしてこれからも駆け引きなしで無条件で、また休みなしで行ってくれます
いつの時もこうしたことを平気でやってのける。そしてそのおかげで生きていくことができる。尊い以外の何ものでもありません。
大前提としてそんな尊い命を我々は一人一人頂いているのです。そしてそれは誰にとっても与えられているものです。共通していることなんです。これからもそれは失われることなく行われ続けます。
価値観や性格、生まれこそ違えど、生命を維持するという根本的な活動部分は皆同じ働きで、そもそも皆尊い命を頂いているのだなと、我々の存在自体がそもそも実に尊いんだなと。
ここを理解することができれば、我々は一つ安心を授かることができるのではないかとそう思うわけです。
生命活動に優劣はありません。
俺の消化の方が美しい。私の呼吸のほうが丁寧だ。そんなものはありません。生きていく能力は皆同じです。そしてそれは誰しもに備わっていて、それがあれば生きていける。
生きるにおいて、死ぬまでにおいて本来は誰とも比較する必要などないのです。
このことを念頭におけば、我々は安心して生きていけるはずです。
我々は生きているだけで実に尊い、そのように思うことができれば、生きていれさえすればそれでいいのはないか?そのようにも思っていただけるはずです。
そのことを我々僧侶は伝えていく。
そしてそれで安心を一つ感じていただくことができれば、これ以上我々僧侶が求めるものはありません。僧侶人生の冥利に尽きるというものです。
誰しもが安心して生きていける。生きているだけでいいんだよってことをわかってもらえればそれだけでいいのだと思っています。
実際は難しい。人間は概念の生き物
しかしこれがなかなかに難しい。私でさえもそんな風には思えませんから。
だって生きていくためにはお金が必要だし、そのお金を稼ぐためには知らない人に怒られたり、喧嘩したりと、本当に苦労するからです。
今述べてきたような本来の真実についてもほとんどの人間は気づきもせず死んでいくことでしょう。
誰かを突き放したり、誰かを貶めたり、そして自分がのしあがる。そのように考えている人間がほとんどなのです。
そしてそのような人々に囲まれているのが我々で、今回の人間の本来の命の話など付け入る隙がありません。
我々の人生においては確実に概念が先行してきます。
誰かと外見で比較して落ち込んだり、会社や学校での成績が悪くて落ち込んだり、そんな概念上での営みが先行して、またその営みによって我々の本来のあり方が見えなくなってしまうのです。
また中には予期せぬ病やトラブルに巻き込まれたり、明日もしかしたら殺人犯に殺されてしまうかもしれない、そういった状況に常に晒されております。
またその殺人犯に大切な人の命を奪われてしまうかもしれない。そんなことになったら、もう二度と人生の尊さになんて目がいかないですよね。その者を必ず見つけ出し報復する。人生の目的がこれになってしまうかもしれない。
そんな危険性も常にあるのが我々の世界であり、皆が保守的にならざるを得ない。危機と遭遇しないために、法律やこれまでに成功を収めてきた自分の価値観というものを信じざるを得ない。
人間とやっていくためには、人間として生きていくためには概念が先行するのは仕方のないことなのです。
でもどうにかしてそこをわかってもらう。これが僧侶の役目であり、我々の義務だと思っています。
そもそも先ほど伝えた通り、我々の命と概念とでは全く関係がない話なのです。
そもそもこの世に概念など存在しません。存在しているように我々人間が勝手に思っているだけです。
確かに気持ちよく、心清らかに生きることで精神が緩和されその分寿命が長くなる。ということはありましょう。
しかしそれはまた別の話。生きる、その時まで生き切るという話においては、我々誰しもにそれが約束されているのです。行うことができるのです。
「大丈夫、死ぬまで生きられる。」まさにこれこそが絶対安心の世界観です。
概念と我々の世界の真実とは一切関係がない。
そこをなんとかわかっていただきたい。我々としてはそこを伝えていかなければならない。
世界と我々の概念とは関係がない
世の中は危険です、また生きていくのは辛いです。朝起きるのも嫌だし、寒い真冬の朝なんてこの世の終わりのように思います。
変な人間は多くいて、トラブルやイラッとすることは多くあります。
そんな人間たちと共に生きていく。しかもずっと生きていく。本当に嫌になりますよね。
しかもお金を稼がなければ生きていけない。今の人のほとんどが生きていくこと=お金を稼ぐことと思っていると言っても差し支えがないのでしょう。
そこでは人間のルールに従わなければいけない、人とうまくやっていかなければいけない。どうしても存在しないはずの人間だけに敷かれた概念のルールが先行してきます。
何をするにもお金が必要で、こんな布教より100万円あげた方がよっぽどその人の救いに繋がる。その人の安心につながる。これが実情です。
精神論だけで人を導く、これはもはや無理ゲーですよね。
しかしそれでも負けじと布教しなければいけません。そもそも私に100万円なんて大金ございません。
そこでやはり重要になってくるのは、やはりこれまでにも再三お伝えしている通り、概念と我々の生きる世界とは関係がないということをなんとかしてわかってもらうことだと思っています。
朝起きるのが辛い?そんな馬鹿なこと言わなさんな。朝がなければ太陽は上らない、そっちの方がよっぽど問題です。
それに朝が来るから、夜が来るし、日本が朝を迎えた時、夜を迎えている国があるんです。
いちいち自分の価値観、感情を当てにしない。それが肝です。
これが難しいのですが、我々は自分の価値観が全てだと思ってしまう。自分の価値観に支配されてしまう。それが良くない。
やはり辛いというのは個人の主観であり、言い方は悪いですがその人の単なる感情なんですね。
そしてその主観や心配、懸念というのはつまり人間の概念、妄想だということです。そもそも存在しないものだということです。
もし本当にその心が存在しているのであれば、差し出すことができるはずです。誰かに実際に見せることができるはずなのです。しかしそれができない。なぜなら存在していないからです。
大自然をとく仏法、世の真実を説くのが仏法ですが、そんな仏法において古くから重んじられている教えに「仏法は無我にて候う」というものがあります。
世界に自我(概念)などないというものですね。
我々が生まれてくるときにそんな心は持ち合わせていなかったように、それは今でも持ち合わせていないものです。育っていく過程で脳が発達して、その脳が勝手にそれを「ある」と勘違いさせるようになった。
これが我々の心および概念の正体です。
先ほども述べたように、我々はそんな心配や懸念とは全く関係なしに、平気で呼吸をし、平気で食べたり、消化しております。
どんなに嫌でも朝は来ます。人間の概念とそれは関係がありません。そしてその朝はあなたにとっては辛いものかもしれないですが、別の人にとっては待ち侘びた朝かもしれません。
これが心です。個人の概念です。結局は人間間同士でしか通用しない、いわゆる人間が編み出した言語なのです。
作り出されたもの。この世の真実とは全く関連性がないのです。
これがまず大前提でわかってもらわなければいけないことなんですね。
生きていくためにはお金を稼がなければいけない。そのためには様々に我々は悩みます。そのせいでこの概念があたかも主導権を握っているように思われるだけなのです。
繰り返しになりますが、生命活動と、概念というのは全くの無関係。
心配や懸念、翻って楽しさやワクワクといった概念など、そんなものなくても我々は生きていけるのです。
なんの当てにもならない、それが概念です。
実際に我々が身を置くこの世界というのは人の価値観とは関係ないところで存在しています。
大規模な地震や津波が起きるのもそのせいです。ただその地震が起きた麓に我々が生活をしていただけのことなんです。
概念や個人の物差し、そういったものが遠く及ばないというか、やはり関係すらしていないのがこの世界の正体なのです。
偉人、良寛さんは「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候」と言われました。
大自然に生きた良寛さんらしい言葉です。そして真実をいい得た言葉です。
真実のみ
この世界というのは真実のみが展開しています。
ここが次なる安心ポイントです。そして我々僧侶が布教を行う際に注目したいポイントです。
それは全てが自分という世界。自分と他とが分かれない、誰もが絶対当事者の世界だということです。
例えば壁を殴れば自分の手が痛くなったり、スクランブル交差点で他人と肩がぶつかって自分も痛くなるのは自分とその他の命に境界線がないからですね。
世界=自分だからです。もしこれが世界と自分の命とが2つにわかれていたら、壁を殴っても自分の手は痛くならないし、人とぶつかっても自分は痛くならないはずなんです。
またこの世界を仮に2つに分けられるとして「ここからここまでが俺の命で、ここからここまでがあなたの命」という線引きができたなら、あるいはそれをしたなら、我々は即座に窒息死してしまうことでしょう。
しかしそうはならない。なぜなら我々が普段吸っている酸素。これはそんな「俺の命」という境界を超えたところからもたらされるものだからです。境界を越えたところから俺の命は生み出されているんですね。俺の命に境界などなどないのです。
私も私以外の全ても全体によって生かされている、常に誰もが全体と繋がっている。これが世界全体で共通する真実です。
全てに言える真実です。だから全ては1つにつながっているんですね。
そのことについて以前以下の記事でもお伝えしましたが、我々の世界というのはそう言った世界で、我々は自分たった一人だけの世界に生きている、当事者のみの世界に生きているということなんです。
そこでは物事が決して二つと分かれない世界、たった一人だけの世界を生きているわけです。
よって人に評価されたり、評価したり、そもそも評価など決してできない世界を本来生きているということなんです。
これが世における真実ですね。真実ということは「絶対」ということです。誰しもにいえる「事実」だということですね。
冒頭でお伝えしたように万人に共通する事実です。
そこをまた一つ心の拠り所にしてもらう。我々もそこをお伝えしていく。
なので話は少し変わりますけど、仏教ってなんだかんだ超現実主義者の考え方なんです。超現実主義というと少し冷たい感じはしますけど、事実だけを重んじ、その事実のもとに生きていくわけです。
しかしそもそもその事実というのが本来非常にありがいものだということなんですね。
我々は事実を軽んじすぎてしまっているんですね。呼吸もそう、排泄も、今こうして生きているさまざまな事実。これが本当は実に尊い。この普段の日常を大切にしていく。
日常を大切に。これが禅の根本です。
普段我々はいかにありがたい命を生きているかということで、その事実がすなわち仏だということなんです。
その日常の尊さを説くこと、これを仏教と言います。
今の話もそうですが、誰もがそんな尊い日常をいただいている。
そしていつも「呼吸」や「消化」、「排泄」など生きるための生命活動が自動で行われて、こうして平気で生きていける。だから安心して生きていける、そんな命を本来我々は生きているわけです。
我々が生きづらいと感じる最もな原因は、自分で勝手に他人と評価することで生じる生きづらさ、あるいは他人に評価されることで生じる生きづらさによるものです。
当事者のみのこの世界を自分で勝手に狭くして、架空でしかない相対的な世界を作り出し、そこで生きようとするから大変なんですね。
そんなことはしなくていいんです。しようと思ってもできません。この世界は私のみなのだから。
評価される人もおらず、どこか他に評価する人もいない。全てが自分のみの世界なのですから。
そう言った世界に実際に我々は生きているんです。それが現実です。
そのことを伝えることができれば、大衆も一つ救われるのではないかなと、そこをわかっていただければ僧侶の役目を果たせるのではないかなと思ったりもするんです。
しかし今のことを言葉で説明しようと思っても、なかなか理解を得られない。大衆はそれが本当なのか疑問に思ってしまうからです。
そこで我々が行わなければいけないのが坐禅をすすめるということです。
そして実際にその真実を行じてもらう。体感してもらう。それが要するにこの世界を理解する上で最も手っ取り早い方法だからです。
なぜなら足を組んで、坐禅をしてもらうこと。坐禅=真実=だからです。これを布教に用いるのが一番です。
というのも足を組むと痛くなる。これって確かなことなんです。要するに今述べてきたような俺だけの世界、当事者のみの世界を結果としてそのまま体現しているんですね。
一方で人の概念や価値観で支配された世界には確かなことではありません。
人によってそれは緑と見えたり、黄緑と見えたりするからです。そもそも自分の中のどこを探してもそんな概念や心は見当たらないはずで、誰かにその心を差し出そうと思っても差し出すことはできません。
そんなあてもない、実体のないもので始終しているのが今の我々なのです。
しかしこの足の痛みは違う。確かなものです。
そして誰もが共通する痛みです。私であろうと、総理大臣であろうと、有名人であろうと。誰もが足をくめば痛くなる。
その痛みは誰かと比較して生じたものではありません。またその痛みは陣痛よりはマシだとか、転んだ時よりは少し痛いなとか、そんな比較もできません。痛いものは痛い。それは宇宙いっぱいの痛みです。
それは生命の実物です。この世界の真実の卵です。先ほどの呼吸や消化と同様、重大な生命の作用なんです。
もとより世界はこの生命の実物だけです。概念は存在しませんから。そんな真実のみが行われている、これが坐禅です。
足を組み、足が痛くなる坐禅。
この坐禅では真実のみなんです。大自然のみなんです。大自然の行なのです。
だから行う。大自然に生きる我々にとって、この坐禅こそが行うべきことだから。本来の仕事だから。
だから「只管打坐」なんですね。
足を組めば痛い。これは紛れも無く、生命の実物です。
実物ということは真実です。それは概念でなく、確かなこの世の真実なのです。なので坐禅は大自然の行いなんですね。真実そのものなんです。
これが分かれば本来の我々の身を置いている世界は価値観や概念と関係がないのだとわかっていただけると思っています。
また坐禅をしているとカラスの鳴き声が勝手に聞こえてきたり、外を走る自動車の音が聞こえてきたりします。
つまり他の命が、今坐禅をしている自分の命に響く。あらゆるものが自分の命そのものの存在であることがわかるんです。
こういった本来の世界のあり方が坐禅ではわかるんです。わかるというよりは坐ることで、世界そのものになる。世の真実そのもの。これが坐禅です。
なので道元禅師は「只管打坐」を強くおすすめになり、また「普勧坐禅儀」をああして説かれたわけなんですね。
この坐禅に対し「一寸坐れば一寸の仏」と言われたり、「仏の家に投げ入れる」と言われたりするのは、坐禅こそが「真実」だからなのです。
足が痛くなる。これは誰にとっても同じです。確実なものなのです。世界の確実、すなわち真実。それが坐禅だということで、坐禅=真実ということなんですね。
坐禅をおいてこの世界に確かなものは他にありません。これ以上の安心は他にはないのです。この世界をそのまま体現しているものはないのです。
坐禅がそのまま布教ですね。
これをいかにやっていただけるかが肝心です。
人生楽しい!と思っている人間にもサイレンの音やカラスの音というのは平等に聞こえてくる。かたや気持ちが落ち込んでいる人だけにサイレンが聞こえるわけではない。気持ちがプラスな人だけにディズニーパレードの音楽は聞こえるわけではないですよね。
我々の世界にはきちんと真実があって、真実のみの世界です。概念はその後付けで、本来のこの真実の世界とは関係がないのです。
インドから中国に仏教をお伝えになった達磨様は「諸法無我」と言われました。この世界に自我などないということですね。見方を変えれば全てが自分だということです。
なのでなんとかしてその真実をわかっていただく。
真実を実践し、その真実を伝えていく。これが窮するところの我々僧侶の役目なのではないでしょうか?
概念と我々の世界とは関係がないということを。そして全てが1つにつながっている、自分のみの世界だということを。
それを伝えるのが我々僧侶の役目です。
harusukeよ、お前はどうする?
もとより、それを行うべき私がそれを実践せんでどうするということです。
そのためにも誰よりも自由でなくてどうすると思うわけです。
ここまで何度も修行をしたのも金を儲けられるようになるために行ったんじゃありません。
今後控える本来の僧侶の活動として、誰とも比較しない、相対的な世界じゃない、本来の当事者の世界に生きているというこの世の真実に向き合う覚悟を培ってきたわけです。
誰もがその世界に生きており、私も例外ではありません。平気で生きていく。平気で生きていく姿をお見せする。それを行わんでどうすると。
金稼ぎなんてものは他人に任せておけばいいのです。
誰もが誰にも脅かされない、そんな人生を送るために。
私がそれを証明しないでどうするという気概です。
私が誰かと比較してばかりでどうするという指摘です。
実際にこの苦しい世界を平気でいき、また真実に生きることを実践し、大衆にわかってもらう、それが僧侶の役目であり、私の責務なんです。
あなたも私も金を稼いでいる場合ではありません。
大衆に真実の生き方を見せる。そして行ってもらう。もとより自分自身がこの世界を生き切る。死に切る。これが僧侶の役目なんです。
誰でも本当は平気で生きていける世界。本来そのような世界なんです。それに気づけないのは本当に虚しいし、悲しいですよね。
せっかくこうして生を受けられた。虫でもカラスでもそこではなんでもありがたかったわけですが、こうして人間として生を受けることができたわけです。
実にもったいないと思ってしまう。
なにがあっても我々の体は概念とは関係なしに平気で生きている。カラスでも猫でも虫も同じように生きている。
そして皆平気で呼吸をし、平気で消化をする。そんなありがたいことを平気でやってのける。
皆そうした仏の加護に守られている。
当たり前のように。そんな命をいただいている。その事に気づき、真実の実践、布教するのが僧侶の役目です。
参考:note「相対的な世界」、豊後大野市サウナ革命した人、形にとらわれない。やりたいことをやる。やるべきことをやる。自分の幸せだと思う道をいく。それが結局は1番しあわせで、近道だから