【講義メモ】村上春樹『風の歌を聴け』主人公「僕」の意識・思考・価値観などについて

私が『風の歌を聴け』の中で特に注目を置いているのは、主人公「僕」の言葉に対する認識です。講義では「鼠と過ごした夜に飲み干したビールの量と空けたピーナッツの殻」の話や、「ある期間の間にしたセックスや吸った煙草の数」の話など、その幾つかが書かれている点が説明されていました。
「僕」がそうして数字に固執する理由として、後者のエピソードが語られた23章に、
「「僕」が三番目に付き合ったガールフレンドは彼のペニスを指して「存在理由(レーゾンデートル)」と呼び、それから人間の存在理由について考え続けた「僕」は、全ての物事を数値に置き換えられずにはいられない癖がついてしまった」(要約)
とあります。また、
「「全ての物事を数値に置き換える」ことによって他人に何かを伝えられるかもしれないと真剣に考え、そして他人に伝えられる何かがある限り僕は確実に存在しているはずだ」(要約)
という説明もあります。つまり、「僕」が数字にこだわり続けたのは、数字こそが他人に「何か」を伝えられる手段であり、かつそれが「僕」の存在理由である、という考えを持っているからであると推察されます。これを踏まえると、「ある期間の間にしたセックスや吸った煙草の数」の話は、「僕」が「僕」である理由、「僕」が「僕」であることのオリジナリティを明らかにするために、彼は吸った煙草とセックスの数を数え続けていたことになります。そこに於いて、数字は彼と彼以外の人間を区別する、唯一無二の根拠になり得るからです。
さらに、「僕」の己の存在理由への固執、「誰かに何かを伝える」ことへの固執にの経緯が、物語の冒頭7章で語られています。ひどく無口だった「僕」は、彼を診療する医者との対話の中で、「文明とは伝達であり、何かを表現できないのであれば、それは存在しないも同じ」と話され、ジェスチャーゲームやフリートーキングを通して、「自分の感情や伝達したいことを相手に伝えること」こそが、「自らの存在する理由」であるのだ、という事を頭に叩き込まれていきます。
こうした経緯から形成された「僕」と、言わば真逆の性質を持っていたのが、「僕」が三番目に付き合った女の子なのではないかと思います。その理由は後述しますが、とにかく自分と真逆の「存在理由」を持って成長してきた彼女と付き合い、衝突し、そして彼女の悲惨な自死というトラウマを経験したことが、「僕」の複雑な人格の形成に繋がっていると言えます。「完璧な文章といったものは存在しない」という言葉への否定からこの小説が始まりながら、やはり何かを書くこと、語ることができないという語り部の「僕」の葛藤は、今回の講義で取り上げたように、「物語の書き手の書き手」たる村上春樹自身の葛藤であるのかもしれません。
「僕」が三番目に付き合った女の子は、大学の仏文科で出会った女の子でした。彼女が「僕」のペニスを指して「レーゾンデートル(raison d'être)」という言葉も、察しの通りフランス語であり、当時存命だったサルトルなどのフランスにおける実存主義哲学で用いられていた言葉でもあります。ところが、「実存は本質に先立つ」に代表される実存主義の掲げる思想とは真逆に、彼女は「僕」が初めから持って生まれて来たペニスをあなたの「存在理由」(=本質)であると言います。この時点で、言葉で語ることを自分の「存在理由」であると語る「僕」と、正反対の考えを彼女が持ち合わせていることが分かります。また、大学に進学した理由を「神の啓示を受けた」と語ったことからは、人生に対する向き合い方、彼女自身の人生そのものが、彼女自身の選択ではなく、何者かに定められた運命によって「決められている」のだという彼女の人生観の片鱗が伺えます。このことから、彼女自身もまた自らの「存在理由」を、生まれ持った自分の本質(=他者によって定められる運命)に求めていたことが推察されます。
そんな「僕」と彼女の、決別とも読める場面が書かれているのが、34章の「「僕」のついた一つの「嘘」」のエピソードです。
恐らくセックスをし終えた後、「戦場に架ける橋」を一緒に観ていた彼女は、橋が爆破される結末を見終えた後に、「人間の誇り」について考え始めます。「人間の誇り」とは、言わば一つの「存在理由」の一つであります。ところが、誇りの象徴である橋は、あっけなく爆破されてしまいます。直後に彼女が「僕」に「私を愛している?」と問うたことは、紛れもなく「今彼に愛されている「私」が存在する」ことこそが彼女の存在意義であり、映画の悲劇的なラストを観て、自分自身の「存在意義」もまた脆く崩れ去るのではないかという不安を抱いたことが何となく察せられるようになっています。
その問いに対して、「僕」は「もちろん。」と答えます。より具体的に結婚の意思について聞かれても、いつかしたい、と答えます。そこで子供は何人欲しいと聞かれ、「女が2人に男が1人。」と答えたところで、突然「嘘つき!」と罵倒されます。それに対して、「僕」はひとつしか嘘を吐かなかった、と回想します。無論、彼女が「女が2人に男が1人」と聞いて「嘘つき」と怒り出したのではあまりにも唐突で無根拠ですし、仮に「僕」の彼女を「愛している」という意思が嘘であったとすれば、その後の僕の話したことも全て嘘になってしまいます。そこで、会話の合間にあった「僕」の結婚願望について「でも私が訊ねるまでそんなこと一言だって言わなかったわ。」と疑ってかかった彼女に対して「言い忘れてたんだ。」と少し言い訳じみた「僕」の弁明が嘘だとすれば、彼女がそれを嘘であると見抜き、彼が本当は彼女を本気で愛していない(結婚願望がない)という理由で「嘘つき!」と怒り出したのだと合点がいきます。
これだけを切り取るとよくあるカップルの喧嘩話のようになるのですが、その後に彼女は自殺し、「僕」は彼女の死をトラウマのように何度も回想の中で反復するようになります。「僕」自身が彼女が何故死んだか分からない、と主張するように、この事件が彼女の死の原因となったという直接的な描写はされていませんが、「僕」と彼女の性質に決定的な対立があったことを踏まえると、やはりこの場面が、僕と彼女の人間関係に亀裂を生じさせ、さらに彼女の自死という「存在理由」の喪失に繋がり、「完璧な文章など存在しない」と「僕」が語ることへの動機へと繋がっていると疑わざるを得ません。
34章の冒頭、「僕」は嘘と沈黙を現代社会における巨大な罪と指摘します。それは彼自身が「自分の気持ちや伝えたいことをはっきりと言葉にして伝える」ことが人間が人足り得、また自分が存在する価値であると信じているからです。ところが、それに相反して「僕たちが年中しゃべり続け、それも真実しかしゃべらないとしたら、真実の価値など失くなってしまうのかもしれない」とも疑っている訳です。実際、彼は「今まで一度も結婚願望について話したことがなかった」という真実を隠すために、「言い忘れていたんだ」という嘘をつく罪を犯し、その嘘に気付いた彼女にその罪を糾弾されることになったのです。
しかしながら、仮に結婚願望について話すのを言い忘れていたということが嘘であるとして、「僕」が彼女を愛している、ということさえも嘘であると言えるのでしょうか。「僕」が結婚願望を話した事がなかったことを素直に認めてしまうと、彼女が疑いを深めて傷つくこと、自分が彼女を愛しているという真実が彼女の中で嘘になってしまはないように、敢えてそこだけ嘘を吐いたとすれば?
この「僕」の吐いた所謂「優しい嘘」の問題は、「僕」自身のアイデンティティの揺らぎにまで大きな影響を及ぼしたと言えるでしょう。これは自らの存在価値、相手に正しく自分の感情を伝えるための手段として信頼を置いていた言葉、言語への不信が根付いたきっかけであるからです。「僕」から彼女への愛を伝えるはずの言葉が正しく伝わらなかったという、云わば言語の限界性に初めて「僕」は直面したのです。そして「誰かから与えられた運命」、ここでは彼から愛されている自分という存在理由を失った彼女は、その後自死という結末に至ることになります。
ここまで長くなりましたが、結局この言葉に対する「僕」の葛藤が語られた経緯は、小指のない女の子が「僕」に対して「旅行に行ってくる」という嘘を吐き、「嘘なんて本当につきたくなかったのよ。」と吐露することが発端になっているのですから、これは「僕」だけの罪の意識だけではなく、小指のない女の子の罪の意識である、ということになるのです。これに関しては「鼠と僕による小指のない女の子を巡っての三角関係の可能性」など、別の考察があると思いますがここでは省きます。
そして嘘に対する罪の意識に苛まれた彼女は、「僕」の前から姿を消します。僕が結局彼女に抱いていた感情が同じ罪を背負った人間へのただの同情心か愛情なのかは結局最後まで語られませんが、「宇宙の複雑さに比べればこの我々の世界などミミズの脳味噌のようだ。」というハートフィールドの言葉を「そうであってほしい」と願っている「僕」の感情は、こうした心の中の真実と言葉の限界性の間で葛藤する人間の苦悩でさえも些細なもので在って欲しい、という、言葉によって誰かを傷つけ、自らも傷つける人間の愚かさを敢えて認めるような一種の諦念のように感じます。
ですが、村上春樹が「僕」の縋り付くハートフィールドの言葉さえも、架空の捏造された人物の実際に存在しない言葉である、というアイロニーに落とし込んだことは、あくまで虚構としてのフィクションに向かい合ってちっぽけな人間の諸相をそのままに描く、という意図があるのではないかと考えます。

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