【講義メモ】村上春樹『風の歌を聴け』(2) 「最も印象的な」シーンについて

私が『風の歌を聴け』で最も印象に残っているのは、37章です。

ここでは、病気で入院生活を送る女の子の手紙が読まれます。彼女の手紙からは、回復する見込みが薄いことがわかり、手紙の言葉は全体的には前向きではありますが、やはりどこか隠し切れない生への諦念、死の匂いを漂わせています。また、手紙を代筆するお姉さんは、その経歴から、「僕」が中学の卒業旅行でコンタクトレンズを拾い、お礼に「カリフォルニア・ガールズ」のレコードを貸してくれた女の子で、ラジオで「カリフォルニア・ガールズ」を「僕」へのプレゼントとしてリクエストした女の子であることをどことなく示唆しています。

もしかしたら、高校で付き合った一人目のガールフレンドも、彼女であるのかもしれません。そう考えると、あれこれとアメリカ各地の女の子をべた褒めした挙句、「素敵な女の子がみんな、カリフォルニア・ガールだったらね・・・」と帰結する歌詞を敢えて今「僕」にプレゼントすることは(調べてみると『カリフォルニア・ガールズ』は1965年の曲であり、この曲を最初にプレゼントした当時ではまだ目新しい新曲だったのでしょう)、様々な妄想を膨らませます。

それはさておき、ここではポーカーフェイスの「僕」を何年ぶりかに腹立だせたほど陽気で「ゴキゲン」なラジオDJが、彼女の手紙を読んで感涙にむせび、そしてこう語ります。

「実にいろんな人がそれぞれ生きてたんだ、と僕は思った。」

「でもね、君に同情して泣いたわけじゃないんだ。」

「僕の言いたいのはこういうことなんだ。」

「僕は・君たちが。好きだ。」

最初にこの言葉を読んだ時は、「なんとも呑気なセリフだな」と思いました。病気の彼女に同情するでもなく、激励のメッセージを送るのでもなく、「色んな人たちが生きているんだなぁ」と感慨に耽ってそんな「君たち」が「好きだ」と言うのです。これはある意味突き放したメッセージと言えるでしょう。「ありのままの君でいい」という言葉の無責任感と似ています。

私が仮に女の子だったら、「何処の誰かも知らないラジオDJにそんなことを言われる筋合いはない」と思うでしょう。

ですがこのような考え方をする人は、ラジオを聴いている「僕」、もしかしたら似たような話をラジオやテレビの前で聴く私たち自身にも当てはまるのかもしれません。

鼠の小説の優れた点として「セックス・シーンの無いこと」、「一人も人が死なないこと」と評したことは、「僕」自身の人生に対する皮肉なのかもしれません。「僕」がセックスをした女性は皆死んだように跡形もなく去ってしまうか、実際に死んでしまうからです。それにも関わらず、「僕」は飄々と生き続けています。「僕は・君たちが。好きだ。」という台詞は「僕」自身の叫びであり、懺悔なのかもしれません。

そういう理由で、この章が最も印象に残りました。


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