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『アリスとテレスとの哲学対話』〜市場のくびきを解き放つ新しいマネジメント論 第7回 

第1話 世界はなぜ市場化するのか~その2 世界と私の40年


「最高の指導者とは、統治していることを感じさせない者である」

古代ローマの歴史家 タキトゥス

事業をしない経営者

観人:「イタリアの現地法人は、10名ほどの邦人駐在員と約40名の現地職員で構成されていた。主な業務は日本とイタリアの間の貿易で、ほとんどが日本企業との取引だったので、5つあった部署の責任者はすべて日本人だった」

テレス:「戦後の日本企業の海外進出のほとんどはそのパターンでしたね。管理職は日本人、意思決定は日本の本社、現地職員は基本的にアシスタントか担当者でした」

観人:「そう。原材料を輸入し、加工品を輸出するのが戦後の日本経済の成長パターンだった。言葉の問題もあり、その体制はある時期までは合理的だった。しかし次第に機能しなくなっていった」

アリス:「具体的には?」

観人:「グローバル化の進行、日本の景気低迷、駐在員コストの上昇。その3つを主因とする収益力の低下だ」

テレス:「家族を帯同すると、現地での家賃や教育費などの費用がかかります。それを会社が負担すれば現地職員の2〜3倍の費用がかかりますよね。グローバル化が進む時代に日本との取引に依存すれば、じり貧は避けられないし、マネージャーになれない現地職員の士気をいかに高めるかという問題もあったでしょう。特に優秀な人材であればなおさらです」

アリス:「旧体制の限界がはっきりしてきたのですね」

観人:「赤字にならないために各国の拠点はどこもコストの削減に取り組んでいた。私がイタリアに赴任したのはそんなタイミングだった」

テレス:「一番手っ取り早いのは、家賃と人件費の削減ですよね。そのために駐在員を減らす」

観人:「そう、日本人を帰国させ、後任者は送らない。現地で何とかしろ、ということだ。赴任当時私を含めて10名いた日本人駐在員は、1年で3人になってしまった」

アリス:「現地職員は、日本人が減って自分たちに昇格のチャンスが巡ってきたと喜んだのでは?」

観人:「そう思っていたのはごく一部の人だけだった。日本人の減少はビジネスがうまくいっていない証拠であり、大多数の現地社員は、自分たちも解雇され、いずれ事務所が閉鎖されるのではないかという不安を抱えていた。実際、欧州の小規模な拠点では、日本人が帰国すると同時に閉鎖された例もあった。それまで店長やマネージャーを育成しておらず、責任ある立場で働ける現地社員がいなかったんだ」

アリス:「重苦しい雰囲気の中でのイタリア赴任だったのですね。最初の赴任地だった香港の天安門事件直後の状況に似ています」

観人:「そうかもしれない。そしてそのタイミングで、会社は事業の運営と拠点の経営を分離するという、組織戦略の大きな変更を実行した」

テレス:「詳しく聞かせてもらえますか?」

観人:「それまでは、現地法人なら社長、支店なら支店長が自店の業績に責任を負っていた。これを『部店独立採算制』と呼んでいたが、私が赴任する1年ほど前に『商品本部制』に変更になった。業績責任は商品本部長が負うことになり、拠点長の役割は労務管理に限定されることになった」

アリス:「その変更で具体的に何が変わったのですか?」

観人:「欧州の場合だとロンドンが地域統括本部となり、ドイツ、フランス、イタリアなど各国の拠点はその下に配置されることになった。ロンドンには鉄鋼、化学品、食料など商品分野ごとに商品本部長が置かれ、それぞれの担当商品の欧州全域での事業戦略と業績責任を担う。拠点長の役割は、各地の人的リソースを預かり、商品本部の業績に貢献することになった」

テレス:「現地法人の社長も支店長も、法人の代表者はそれぞれの国の法律や習慣に従って人を雇用し、決算を申告し、納税する必要があります。法人の経営責任は負うが、事業の責任は負わない。それが新しい制度というわけですね?」

アリス:「言うならば拠点長は『事業をしない経営者』になったということかしら。これも事業と経営の違いを理解するとても興味深い事例ですね」

観人:「『事業をしない経営者』とはうまい表現だ。まさにその通り。ビジネスの国境はどんどん低くなっており広域経営への移行を迫られていた。一方で、各地の拠点は法人として法的にも経済的にもその土地に対する責任を負わなければならない。その隙間を埋め合わせるために考え出されたのが、事業は商品本部長、労務管理・法令順守・納税などの法人経営は拠点長、という新しい制度だった」

テレス:「インターネットやSNSの普及で、お金や情報の流れは国境を越えてますます速く大規模になっている。グローバル化と国家の主権をどう両立させるかは、21世紀の重要な課題ですね」

観人:「イタリア人は特に地域やコミュニティに対する愛着が強い。だからとりわけ、遠くのロンドンにいて普段あまり顔の見えない商品本部長の指示で仕事をすることへの戸惑いが強かった。そんな中、2008年9月にリーマンショックが起きた。私が赴任して1年余り経った頃のことだった」

働いて得る小さなお金、働かずに得る大きなお金

テレス:「アメリカの低所得者向け住宅ローン、いわゆる『サブプライムローン』が、住宅バブルの崩壊で不良債権化したのがきっかけでした。高リスクのサブプライムローンが証券化され、金融商品として広く売買されていたため、危機が一気に拡散した」

観人:「アメリカで4番目の大手投資銀行リーマン・ブラザースが、サブプライムローンの損失に耐え切れずに破綻し、それが信用収縮の連鎖を引き起こした結果、世界中で株価が暴落し、多くの金融機関が破綻した。米国政府は総額4,500億ドル(日本円換算約68兆円)の救済資金の投入を余儀なくされ、国内だけで360万人が失業したと言われている」

アリス:「低所得者向けのローンは返済されないリスクが高いはずですが、それがなぜ世界中に広がったのでしょう?」

観人:「それが証券化の仕組みなんだ。返済されない可能性のある多くのローンをひとつに束ね、それを小口の証券にして販売する。リスクが分散された利益率の高い金融商品ができあがるというわけだ」

テレス:「2006年の時点で、サブプライムローンの市場規模は約1.3兆ドル(日本円換算200兆円)あったと言われています。デフォルト(債務不履行)に陥る可能性の高い債権の総額がです」

観人:「個別のローンを分解して束ねることで金融商品が出来上がる。しかも組み合わせを変えることで限界なくいくらでも販売できる」

テレス:「私の仕事では材料がなければ物は作れません。しかし金融商品はひとつの材料から無限に商品を作り出せるというわけですね」

アリス:「それはただの錬金術でしかない、しかも悪質な。私にはとても理解できません」

観人:「でも市場は1.3兆ドルの規模に膨らんでいた。そのまま放置すれば経済が破綻し、人々の生活が破壊される。だから政府は巨額の救済資金を投じざるをえなかった」

アリス:「政府の救済資金の元は、人々の税金ですよね」

観人:「さらに嫌なことを言おう。危機を招いた張本人たちは、巨額の退職金を手にして退場していったんだ。一例を挙げれば、破綻した最大手の保険会社AIGでは、金融商品部門のトップにいた人物は、リーマンショックまでの8年間で総額2億8,000万ドル(日本円換算420億円)の報酬を受け取り、破綻後も未確定のボーナス3,400万ドル(約50億円)を手に入れ、さらに毎月100万ドル(1億5千万円)の顧問料をもらいつづけた。CEOは2,200万ドル(約33億円)の退職金を受け取ることになっていた(批判を受けて受取りを辞退した)。金融商品部門を含む全従業員には総額約1億6,500万ドル(約250億円)のボーナスが支払われた。他の会社でも似たり寄ったりの話がたくさんあった」

テレス:「なんともひどい話です」

アリス:「そのリーマンショックで、観人さんのイタリア現地法人にはどんな影響があったのですか?」

観人:「まず、リーマンショックの前から日本人駐在員の数は減っていた。赴任当時は5つの部署に5人の部長がおり、私を含めた駐在員の数は10名だった。それがリーマンショックまでの1年あまりで3人になり、5つの部署のうち日本人が部長で残っているのは1つだけになった」

テレス:「ずい分大幅なリストラですね。それは観人さんが決めてそうしたのですか?」

観人:「いや、すべて本社とロンドンの商品本部長の判断だ。業績責任は彼らが負っている。私は意見を言うことはできたが、決定する立場ではなかった」

アリス:「でも人が減っていくのは寂しかったでしょう?」

観人:「もちろん。しかし、ビジネスの環境が大きく変わっていた。日本人が少なくなるのは、単にコストの問題だけではなかった。日本に依存するビジネスの構造を変えなければ、いずれ立ちいかなくなるのは目に見えていた」

テレス:「事業には関われない立場で、コストの削減以外にどんなことができるのでしょう?」

観人:「そうだね。でも制約はあってもできることはしなければならない。駐在員は日本に戻れば別の仕事があるが、現地社員にはその場所しかない。彼らの雇用を守るためにも、何とか黒字を維持しなければならなかった」

アリス:「どのように?どの商売をやり、どの商売をやめるかを決めるのはロンドンの商品本部長なのでしょう?」

観人:「まず、日本人がいなくなった4つの部署をイタリア人に任せることにした。商品本部長に話をして、現地職員を部長にすることに同意を取り付けた。幸運なことに、イタリアの店は各部署にマネージャーのできそうな優秀な現地社員がいたんだ」

アリス:「それは歴代の社長や部長が現地の社員を大切に育てていたからですね」

観人:「その通り。私は与えられた人材に働いてもらう環境を用意するだけでよかった。まだリーマンショックが襲う少し前だったが、帰国した日本人部長の後任に4人のイタリア人を充て、彼ら彼女らにこう伝えたんだ。『なぜ日本人が減っているかわかるかい?ビジネスはどんどんグローバル化している。これまでは日本との貿易だけでよかったから、日本人が交替で部長に就いていた。これからはイタリアの顧客が求めているものを世界中から探し出し、イタリアの優れた商品を世界中に販売していかなければならない。ビジネスの軸足を日本からイタリアに移すんだ。だから日本人ではなく、君たちイタリア人が必要なんだ』」

テレス:「その説明は理にかなっていてわかりやすいですね。言われた人たちの反応はいかがでしたか?」

観人:「すごく良く理解して行動してくれたね。ある部長は他部署のスタッフが日本人マネージャーとうまくいかずに悩んでいるのを知って自部署に受入れてくれ、ある部長はイタリア人のネットワークを使っておもしろい企業の発掘に当たり、管理部の部長はイタリア人スタッフが自ら判断できるようにと会社の数字を整理して共有していた。どれも日本人マネージャーにはできない行動だった。きめ細かくコミュニケーションを取り、情報を共有し、全体の中で自分がすべきことを理解して行動してくれたんだ。おかげで私も各部署のスタッフ一人ひとりの状況や性格も把握できた」

アリス:「香港の工場でコミュニケーションに苦しんだのとは対照的ですね」

テレス:「しかしそこにリーマンショックの大波が押し寄せる」

観人:「欧州の拠点はどこも損益すれすれか赤字に苦しんでいたところに、リーマンショックに見舞われ、ますます厳しい状況に陥った。店長用の社宅や社有車を処分し、家賃の安いビルに引っ越しし、できる限り経費の圧縮に努めたが、それでも赤字は拡大していった」

アリス:「イタリアはどうだったのでしょう?」

観人:「それがね、皆が頑張って営業し、新しい顧客を開拓して何とか黒字を維持することができた。欧州には15から16くらいの拠点があったが、リーマンショックの後に自力で黒字を維持できたのはイタリアだけだった」

テレス:「それはすごい」

観人:「実はイタリアは危機の前も後も売上げや利益にあまり大きな変動がなかったんだ。何でかわかるかな?」

アリス:「わかりません。なぜですか?」

観人:「イタリアの店は地道に顧客の元を訪れ、商品を仕入れ、販売していた。小さな商売の積み上げで利益を出していた。だから景気が良いからといって大きな利益は出ないが、リーマンショックのような危機の際には痛手が少なかったんだ」

アリス:「イタリアは働いて小さな利益を積み上げていた。働かずに金融商品で大きな利益を得るビジネスはしていなかった」

テレス:「私たちアテネの住人には、イタリア人の価値観はとても良く理解できます。私たちは手仕事にこだわるのです」

観人:「もうひとつ、嬉しかったことを話していいかな?」

アリス:「もちろんです!」

観人:「リーマンショックから2年後、イタリア現地法人にロンドンの地域本部から内部監査が入った。私の会社の内部監査はとても厳しいことで有名だったが、その監査報告書にはこのように書かれていた。『現地職員の士気が高く、他店の範となる極めて高いレベルの内部統制が構築されている』。報告書を読んだ本社の社長が『こんな報告書を読むことはあまりないね』とコメントしたという話も聞こえてきた。私は嬉しくて飛び跳ねたい気分だった。人が仲間を大切にし、互いに連携し協力することによってこんな強さが生み出される。マネジメントという仕事のおもしろさを実感した出来事だった」


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