『資本主義の家の管理人』~市場化した社会を癒す希望のマネジメント 終章 資本主義の家の管理人
終章 資本主義の家の管理人 ~ベンチマークとしてのブルネロ クチネリ、パタゴニア、石見銀山群言堂グループ
<本章の内容>
この章では、具体的な企業事例を通じて、資本主義の家の管理人としてのマネジメントの役割を探求しています。ブルネロ クチネリ、パタゴニア、石見銀山群言堂グループといった企業の事例を詳細に分析しています。
ここまで、格差や分断という深刻な歪みをもたらした「社会の市場化」という現象が、いつ頃からどのように世界に広がっていったのかを振り返り、格差や環境問題など、市場化がもたらす社会の歪みを癒すためにマネジメントという仕事が果たす役割を論じてきました。
私益の追求という人間の本能を刺激する機能によって、社会は著しい発展を遂げました。しかし、人間の社会は市場ではありません。社会の発展は、競争を勝ち抜いた1人の勝者ではなく、他者との適合性というもう一つの本能によってつながりを紡いできた無数の見えない人々によってもたらされたものなのです。人間社会を支える「Justice」がどこにあるかを見つけるのは、人間の合議による判断であって、市場の計算ではありません。
本書では、見ることと考えることから始まり、フィクションとしての会社の全体像、事業と経営の違い、人間が働く目的、組織を動かす2つの力と普遍的な重なり、資本や正義の意味、社会は小さな1人からできていることなどを、各章ごとに一つひとつ見てきました。
その目的は、目に見えない全体像を把握することによって、個人と組織の関係、会社とその外の社会や自然との関係のバランスを取り戻すことにありました。この「バランスを取る」という行為、さまざまな関係のJusticeを見つけ、それを保ち続けることがマネジメントの役割であるというのが本書の主張でした。
会社は元々、社会(Societas)であり、ともにパンを食べる仲間(Compagno)の集まりを意味していました。しかし、株主を頂点とする市場経済の浸透により、社会でありともにパンを食べる仲間の集まりである会社は著しく市場と一体化していきました。会社が市場化したことで、経営者は株価に一喜一憂するようになり、タックスヘイブンを使った課税逃れが財務戦略と呼ばれるようになり、過剰な競争が不正や不祥事を招き、コミュニケーションの失敗がハラスメントや心の病などの問題を引き起こしています。
市場化した会社を本来の会社に戻す役割を担うのがマネジメントです。その実践例として、最後にイタリアのブルネロ クチネリ社、アメリカのパタゴニア社、日本の石見銀山群言堂グループの経営について見てみます。世間一般の会社と比べると、これらの会社は例外的なおかしな会社に見えるかもしれません。しかし、本書をお読みいただいた方々には、実は彼らこそが普通の会社であり、ほとんどの会社の方がおかしな会社なのではないかという視点をお持ちいただけたのではないかと思います。
1. ブルネロ クチネリ(Brunello Cucinelli S.p.A.)
ブルネロ クチネリは、イタリア中部ウンブリア州のソロメオ村に本社を置く高級アパレルメーカーです。創業者のブルネロ・クチネリは、1953年に近隣の農家に生まれ、25歳の時に鮮やかな色彩のカシミヤセーターを製造する小さな会社を立ち上げました。彼は事業の目的を、「卓越した職人技から生まれる高品質な製品を提供しながら、人間の尊厳を高め、地域社会と文化遺産を大切に守ること」としています。
創業まもなくソロメオ村に移り、3年後に廃墟となっていた古城を買い取り、そこを拠点に「人間のための資本主義」という経営理念を具体化していきます。古城の改修、公園の造成、無償の職人学校の運営、劇場や図書館の設置、オリーブやワインの生産など、事業の拡大によって増えた利益を、会社の活動とブルネロ&フェデリカ・クチネリ財団の両方を通じて、ソロメオ村の環境の整備と村人たちの豊かな生活のために投資しています。
冒頭で引用した「上場がうまくいったので修道院の修復を始めましょう」という言葉は、2012年にミラノ証券取引所に上場した際、ブルネロ・クチネリが震災で破損した教会の修復を依頼していた司祭に向けて述べたものです。この言葉は、資本主義と企業の目的に対するクチネリの思想を端的に表現しています。
2023年末現在、ブルネロ クチネリ社は全世界に152の店舗を持ち、売上は11億3,942万ユーロ(約1,800億円)、営業利益は1億8,740万ユーロ(約300億円)、純資産は4億5,360万ユーロ(約730億円)、営業キャッシュフローは2億900万ユーロ(約335億円)と強固な財務体質を誇っています。
ブルネロ・クチネリにとって、会社の目的は、企業の繫栄とともに人間と村の生活と自然環境を豊かにすることです。この目的のために、彼は仲間と働いて利益を上げ、稼いだ利益を自らの掲げる理念の実現に向けて投資し続けています。そして、この思想に共感する世界中の富裕層が顧客となることで、クチネリ社は安定した高収益を実現しています。
ブルネロ・クチネリが掲げる「人間のための資本主義」は、人間が尊厳を持って豊かに生きることを目指しています。そのために、ブルネロ クチネリ社とブルネロ&フェデリカ・クチネリ財団は、ソロメオ村の人々の生活や自然環境への投資を行い、これが企業の独自の資本となってブランド力を高め、安定した高収益を生み出しているのです。この利益は、さらに社内外の資本に再投資され、彼らが目指す理想の世界への一歩となっています。何とも見事な資本主義と市場の使い方です。
製品が高額すぎて富裕層以外には手が出ないという理由で、ブルネロ・クチネリの経営を否定する声もありますが、目指す社会の実現に向けて利益を上げ、その利益を目的のために投資するという本来の会社の全体像に照らせば、製品が高額であることはクチネリ社の価値を否定する理由にはならないでしょう。ブルネロ・クチネリにとって、大事なのは、ともにパンを食べる仲間たちと働き、努力してお金を稼ぎ、その利益を自分たちの目的に向けて投資することだからです。
ジェフ・ベソスやマーク・ベニオフなどの著名なIT企業家が揃ってソロメオ村を訪問し、ブルネロ・クチネリがG20サミットに登壇して講演するなど、昨今の行き過ぎた資本主義に対する反省から、同社の「人間のための資本主義」は広く世界中の注目を集めています。
2.パタゴニア(Patagonia, Inc.)
アウトドア用品メーカーとして世界的に有名なパタゴニアは、1973年にイヴォン・シュイナードによってカリフォルニア州ベンチュラに設立されました。もともと登山家であったシュイナードは、クライミング用具の製造からビジネスを開始し、環境に優しい製品を提供して地球環境を保護することを会社の目的に掲げました。
パタゴニアの経営理念は「地球を救うためにビジネスを行う」です。この理念の具体的実践として、1985年に「1% for the Planet(地球のために1%を)」というプログラムを導入し、毎年売上の1%を環境保護団体に寄付しています。また、環境への影響を最小限に抑えるために、リサイクル素材やオーガニックコットンの使用、製品の修理サービスの提供などを行っています。「Worn Wear(使い古した服)」というプログラムでは、消費者に製品の修理や再利用を促し、廃棄物の削減を図っています。さらに、フェアトレード認証を取得した製品を多数展開し、公正な労働条件の確保と労働者の権利保護にも積極的に取り組んでいます。
2022年、イヴォン・シュイナードは自らの保有するパタゴニア社の株式のすべて(時価総額で30億ドル、4,500億円相当)を環境保護活動のために立ち上げた非営利法人に無償で譲渡しました。彼にとって企業の目的は目指す世界に向けて進むことであり、利益はそのための手段です。彼はこう言います。「健全な環境なくして、株主も、従業員も、顧客も、ビジネスもありえない」。パタゴニアのオーナーは地球であり、創業者の彼ですらオーナーではありません。だからこそ、地球のためにその利益を使うことが、シュイナードの考える会社のあり方なのです。
財務内容は公開されていませんが、2023年度のパタゴニアの売上高は約15億ドル(約2,250億円)、純利益は約1億ドル(150億円)だと言われています。これだけの規模のビジネスを保ち、利益を上げ続けられるのは、地球が株主だというシュイナードの思想と、パタゴニア社の活動を世界中の多くの消費者が支持しているからであることは明らかです。市場原理では計れない、重要な会社の価値がここにあります。
3.株式会社石見銀山群言堂グループ
石見銀山群言堂グループは、島根県大田市大森町に本社を置く企業グループです。
大森町は江戸時代に日本の主要な銀山の一つであった石見銀山の麓にあり、人口400名ほどの山あいにひっそり佇む小さな町です。歴史的な古民家の町並みを保存するこの町は、2007年にユネスコの世界遺産に登録されました。
群言堂グループは、日本の天然素材を用いた衣料品や生活雑貨の製造と日本全国への販売、伝統的な町並みの保存と生活文化の発信、他郷阿部家という230年前に建てられた古民家を再生した宿泊施設やカフェの運営など、多岐にわたる事業を展開しています。
群言堂グループの特徴は、地域の生活文化に根差した個性あふれる商品やサービスの開発と、地域の伝統文化の継承に重点を置いたビジネス展開にあります。古い家屋をそのまま活かした店舗や、独特の天然素材を使った手作り感と温もりを感じさせる商品は、その独自の世界観によって消費者から高い支持を得ています。
創業者の松場大吉と松場登美のご夫妻は、地域の伝統と生活文化を守りながら、「復古創新」(古きを尋ねつつ、新たなものを創造する)、「根のある暮らし」(地域の歴史や自然と共存する暮らし)、「経済49%、文化50%、理念1%」(1%の理念が経済と文化のバランスを保つ)など、自分たちの思想や哲学を言葉にして社員と共有しながら、時間をかけて大切に会社を育ててきました。
大森町には、群言堂グループの他に、高品質の義肢装具の製造で世界的に知られる中村ブレイスという会社もあります。これらの企業が地域住民と協力して古民家や町並みの再生に取り組んだ結果、ここ数年で若い家族の移住が増え、子どもたちの増加が町を活気づけています。
松場夫妻の思想と哲学が結晶となった宿泊施設が他郷阿部家です。この美しい古民家の宿は、2001年に第1期改修工事が始まり、登美さんが自ら住みながら手を加え続け、2008年にようやく営業を開始しました。その後も登美さんは、大吉さんの「建物の改修だけでなく、魂を入れなければ本物の家にはならない」という言葉を受けてさらに10年住み続け、丹念に手をかけながらこの宿に生活を根付かせていきました。登美さんは、開業以来今も毎晩ずっと宿泊客と食事を共にし、地元の旬の食材を使った手料理を振舞い、この土地の生活と文化を伝え続けています。
創業から45年を経て、昨年からグループの経営は次世代に引き継がれ、今は第二世代が復古創新の思想に基づいて新たな会社の発展に取り組んでいます。
ブルネロ クチネリと石見銀山群言堂は、規模は異なるものの、共にアパレルを主力とする企業であり、ソロメオ村と大森町という人口わずか400名から500名の小さな田舎町に本社を置いています。衰退していた地元の生活を再生し、地域社会や自然を企業の資本として時間をかけて価値を紡いできたことや、創業者の哲学や思想、言葉に込められた強い思いという点でも、両社は驚くほどよく似ています。
パタゴニア、ブルネロ クチネリ、石見銀山群言堂のように、自社を取り巻く社会や自然の資本を手入れし、地域の雇用を支え、その思想や行動が顧客の強い支持を得ている企業は他にも多く存在します。これらの企業は、頑張って利益を上げ、稼いだ利益を自分たちの思い描く目指すべき社会の実現に向けて人や社会や自然の資本に投資し、それらの資本を太く強くすることで豊かな社会を実現しようとしています。
社会の市場化が果てしなく進む中で、世の中の大多数の企業は市場での競争に淘汰されないよう必死に稼ぎ、好むと好まざるとに関わらず、株主の利益の拡大に邁進しています。その一方で、市場の力とバランスを取りながら、持続可能な社会と自然との共存を目指すこうした会社も実際に存在するのです。アップルやマイクロソフトのような時価総額が一国のGDPを凌ぐほどの巨大企業にはならないかもしれませんが、例え規模は小さくても、こうした企業が100社、1000社、1万社と増えれば、市場化した社会は大きく変わるに違いありません。
貧しい資本主義から豊かな資本主義への転換は、マネジメントに携わる一人ひとりが、どんな社会を目指し、どのような会社像を思い描くか次第です。希望のマネジメントの実現は、コッホの雪片の最初の正三角形である一人ひとりの実践に掛かっています。
資本主義の家の管理人は、「誰かの大きな仕事」ではなく「私の小さな仕事」なのです。資本主義の家を丁寧に掃除して、美しい家と街並みを未来に受け渡す。それが、格差や分断が加速する社会を治癒する、マネジメントという仕事の役割なのです。
★希望のマネジメント
第12条 資本主義の家の管理人になる
<本章のまとめ>
社会の市場化がもたらす格差と分断の歪みを癒すために、マネジメントは重要な役割を担っている。
人間の社会は市場ではない。社会の発展を支えるのは人々のつながりである。
市場を使い豊かな資本主義を実践する企業として、ブルネロ クチネリ、パタゴニア、石見銀山群言堂グループを紹介する。
これらの企業は、目指すべき世界のために利益を投資している。その経営の視界には社会や自然の資本も含まれている。
貧しい資本主義を豊かな資本主義に転換するのは「私の小さな仕事」である。一人ひとりの「希望のマネジメント」の実践が、市場化した社会の歪みを癒す。